歴史に名を残す人々

October 16, 2013

今日の世界的なウイスキー産業を形成した10人の偉人たちを特集する。ここでは短い紹介しか出来ないが、彼らの人生は、それぞれ個別の特集記事あるいは1冊の本にするに足るほど偉大なものばかりだ。この特集をきっかけに、皆さんの知識欲が刺激されることを願う

Report:イアン・バクストン

アルフレッド・バーナード(Alfred Barndard)。このビクトリア朝時代を専門とする偉大な歴史家は、現在彼の業績がこれほど重要視されていることに、おそらく驚いているに違いない。『The Whisky Distilleries of the United Kingdom』誌に専門化向けの記事を書いていた彼は、どちらかというと元来、あまり目立たないジャーナリストだったのだ。だが現在、抽象的な表現で読者をじらしたり、必要以上に細部にこだわる彼の見事な記事は、ビクトリア朝時代の酒づくりを最も完全に伝える記録となっている。既に失われてしまった蒸溜所についての唯一の情報源であり、図らずもアイリッシュウイスキーが衰運に向かう目撃者となっているのだ。
その成功に乗じ(優れたウイスキー作家にはよくあることだが)、彼はいくつもの蒸溜所に依頼され、宣伝用パンフレットの制作も手がけている。これらは現在、非常に希少価値のあるコレクションアイテムとなっている。

M・ジョセフ・アントワーヌ・ボーティ(M. Joseph Antoine Borty)は、フランスのワイン生産者であり、図らずも1862年にフィロキセラ油虫(ブドウの木に寄生する虫)をヨーロッパに輸入してしまった人物である。フランスのワイン業界にとっては災難なことに、彼の故郷であるロックモールは、ローヌ川のほとり、ラングドックの中心地に位置していたため、その理想的な立地条件を得たフィロキセラは急速に蔓延し、ヨーロッパ原産のワインを壊滅状態にしてしまったのだった。ワイン製造の崩壊に伴い、コニャックの製造も急激に衰退し、それによってウイスキーが世界的な優位を占めるきっかけとなった。ウイスキー業界は、こう言うだろう。「メルシー、ボーティ殿!」と。

1824年、イニアス・コフィー(Aeneas Coffey)は、アイルランド(当時はイギリスの一部)の物品税検察官の職を辞任し、ダブリンにあるドック蒸溜所を引き継ぎ、そこで様々な実験を開始した。その頃、既にキルベーギーのロバート・スタインが連続式蒸溜機の特許を取得(1827年)していたが、そのわずか3年後、コフィーは効率を遥かに向上させた改良型蒸溜機をデザインしたのだった。
まもなく、彼はその新しいコフィースティルをスコッチウイスキーの蒸溜所(またはロンドンのジン蒸溜所など)に売り始めたが、皮肉なことに、ジェイムソン、ロー、パワーズらを始めとする、伝統を重んじるアイリッシュウイスキーの蒸溜所らは、「まがい物のウイスキー」しかつくらないとして彼の発明品を拒絶した。その後彼らは大変な費用をこうむることになるのだが。
1860年、英国のグラッドストーン首相によって、未納税のまま保税倉庫でブレンド作業を行うことを認める蒸溜酒法が制定されると、彼のテクノロジーは広く使われるようになった。連続式スティルに対するスコットランドの蒸溜所の関心はますます高まり、それによって蒸溜酒の世界は劇的な変貌を遂げたのだった。

スコッチウイスキーは、遠い昔から衰勢を何度も繰り返してきた。ウェールズ出身のエンジニア、ウィリアム・デルメ・エバンス(William Delme Evans)が、第2次大戦後のスコッチウイスキー業界の発展期に働き盛りであったことは、彼にとって幸運だった。1947年、彼はパースシャーのブラックフォード近くに位置するタリバーディン蒸溜所を取得し、それを彼独自の革新的なデザインに改造した。エンジニアであった彼は、工程の効率化や優れた工場レイアウトなどに強い関心を持っていたため、ワームタブが主流を占めていたその当時、シェル&チューブコンデンサの導入に踏み切ったのである。
彼の業績は即座に認められ、彼はさらにジュラ(現地まで行く為に、飛行機の操縦を習得した)やグレンアラヒ、マクダフなどで新しい蒸溜所の設計を依頼されたが、経営者と決裂。後者のプロジェクトを口にすることは滅多になかった。彼の建築は、グレングラッソーの建物だけでなく、実際には1950年代以降に建てられたあらゆる蒸溜所の設計に影響を及ぼした。ウィリアム・デルメ・エバンスは2003年に死去している。

現在、チャールズ・クリー・ドイグ(Charles Cree Doig)は、スコットランドにおける蒸溜所設計の第一人者として知られている。パゴダ屋根(正式にはドイグベンチレータと呼ばれる)を発明し、1890年代の蒸溜所急成長期に数多くの設計に携わったドイグの作品は、彼の処女作であるグレンバーギ蒸溜所をはじめとして、ダルユーイン、グレンファークラス、ダルウィニー、バルブレア、ノッカンドウ、アバフェルディ、プルトニー、ハイランド パーク、北アイルランドのブッシュミルズ、ダフタウン、タリスカー、グレンキンチー、スペイバーン、ベンローマック、アベラワーなど、枚挙に暇がない。
19世紀末のパティソン商会の倒産とその後の市場の暴落以来、蒸溜所設計の依頼は途絶えた。グレン・エルギン以降、スペイサイドには50年間新しい蒸溜所は建設されないだろうというドイグの予言が的中したことは有名である。

マイケル・ジャクソン(Michael Jackson)の死は、実に惜しまれる。彼は1987年にはウイスキーに多大なる関心を持ち始め、それが高じて博学なウイスキーの権威にまでなったのだった。特にシングルモルトウイスキーの発展に対する彼の影響力は、語りつくせぬほどだ。彼は、ロバート・ブルース・ロックハート卿や、アルフレッド・バーナード以来、間違いなく最も影響力を持つ唯一のウイスキー作家だった。蒸溜業界は彼の業績を、様々な賞で称えた。中でも最も有名なのが、マスター・オブ・クエイクにノミネートされたことだった。
既に豊富な経験を持ち、また病気が悪化してゆく中にもかかわらず、彼は最後までチャーミングで熱心だった。彼が逝去する少し前、とある蒸溜所を訪問したのだが、とりわけ何の成果も得られなかった中でも、彼は膨大なメモを取っていた。そんなに何を書くことがあるのか、と尋ねた私への彼の答えは、彼の持って生まれた謙虚さと無限に喜びを感じるその人柄を良く表わすものだった。「何にでも、常に新しい発見はあるものだよ」

おそらく、ジョセフ・A・ネトルトン(Joseph A. Nettleton)の存在は、わずかな蒸溜専門家や歴史家を除いて、ほとんど忘れ去られているものだろう。しかしながら、その当時彼は多くの蒸溜所の開発にアドバイザーとして携わり、蒸溜技術に関してはまさに素晴らしい生き字引だった
彼は、その偉大な作品の中に行き続けている。1913年に出版された『The Manufacture of Whisky and Plain Spirit』は長年にわたり、規範を示すものとみなされており、第1次大戦前の蒸溜作業に関する知識の宝庫だった。19世紀末の伝統的な蒸溜方法について学びたいと思ったら、まず参照すべきはネトルトンの著書だ。

ウィリアム・ヘンリー・ロス(William Henry Ross)は、近代のスコッチウイスキー産業の基礎を構築した人物といえる。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ディスティラーズ・カンパニー社(「DCL」)のゼネラルマネジャー(実質的にはCEO)を務めた彼は、DCLを単なるグレーンウイスキー製造組合から、スコッチウイスキーの世界的な企業にまで発展させた立役者なのだ。
彼の典型的なスコットランド人らしい性格は、1898年から1899年にかけてのパティソン商会の倒産において担った役割によってさまざまな形で鍛え上げられた。その後、効率の悪い時代遅れのウイスキー業界を合理化し、効率を上げることを決心した。
先見性を持ち、またその一方で熱心だった彼は、様々な経営者をおだてたり脅したりしながらDCLの旗の下に引き入れ、その結果1920年代の操業停止の波の中で、多くの蒸溜所を閉鎖させた。このことは今でも様々に議論されているが、彼の信奉者たちに言わせれば、それがこの業界を救ったのだ。

ひとりの男が、ひとつの産業を興すことなど出来るものなのだろうか? 日本のウイスキーの父として知られる竹鶴政孝氏は、それを成し遂げた。竹鶴一家は、1733年の昔より造り酒屋を営んでいたが、政孝の心を捉えたのはスコッチウイスキーだった。1918年、彼はスコットランドに留学し、まずグラスゴー大学で、そして後にロングモーンとヘーゼルバーンの両蒸溜所でスコッチウイスキーについて学んだ。
日本に帰国した竹鶴は、壽屋(後のサントリー)に入り、蒸溜所の設立に尽力した。1934年、彼は日本の中でスコットランドの環境に最も近いと確信した北の国、北海道の余市に自身の会社を設立した。
同社は後にニッカと名づけられ、その最初のウイスキーは1940年に発売された。それ以来、彼のつくるウイスキーの品質は、世界中で認められている。

最後に紹介する、スコットランド生まれのアンドリュー・アッシャー(Andrew Usher)ブレンディングを発明した人物として記載に値する。1782年のエイプリルフールに生まれた彼は、1813年にその名を冠した会社を立ち上げた。

エディンバラのアッシャーホール

1840年代に入ると、彼は(言い伝えによると)妻とともに、ブレンディングの実験を繰り返し、1853年にはアッシャー・オールド・ヴァッテッド・グレンリベットを売り出した。ブレンドウイスキーの成功が広がるにつれ、アッシャー社はスコットランド最大の会社のひとつへと成長した。後にDCLに吸収されてしまうことにはなるが、その伝説は今でも息づいている。

以上、10人のウイスキーの偉人たちを紹介するには、あまりに短すぎるものではあるが、彼らの業績を称えることは、実にふさわしいものと思われる。
アイザック・ニュートン卿いわく、私たちは「偉人たちの助けを借りて生きている」のだから。

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