60年前と現在を比べれば、社会や技術は大きく変化した。それでもウイスキーづくりには、決して変わらない原則もある。デニス・マルコムの言葉には、未来へのヒントが満ちている。

文:クリストファー・コーツ

 

最初の仕事は、樽職人の見習いだった。デニス・マルコムは微笑みながら昔話を続ける。

「最初の給料は、週給2ポンド50セントでしたね。土曜日も働いて、その値段です。当時は有給休暇なんてありませんでした。唯一の休みといえば、クリスマスの日に与えられる2時間だけ。その時には、みんなで遅めのランチを食べながら女王陛下のスピーチを聞いたものです」

それでもデニスは、グレングラントでの仕事が自分に合っていると感じていた。1961年、デニスは樽工房で働き始める。古い大麦袋をリサイクルしたエプロンを身に付け、自分の手の大きさにぴったり合わせたハンマーを蒸溜所の木工職人に作ってもらった。

最初に習ったのは、アメリカから輸入した5本のバーボンバレルをばらし、4本のホグスヘッドに樽材を組み直すという作業だった。

長めのネックに取り付けられた精溜器。グレングラントのフルーティな酒質は、昔ながらの設備を維持することで受け継がれている。

「樽を組み上げるときは、誰が組んだかわかるように樽職人ごとのマークが付けられるんです。作った樽に何か問題が起きたら、その樽を作った職人が自分で直さなければなりません」

デニスは、数年前に自分が作った樽に問題が発生して、樽職人の親方に呼び出されたことを憶えている。

「おいニッパー(小僧)、第4貯蔵庫の第2セクションで、3層目にある樽からウイスキーが漏れているぞ。お前が組んだやつだ」

当時のデニスは蒸溜所で最年少だったこともあり、ニッパー(小僧)と呼ばれていたのだ。

「親方はマークを見て、私が組んだ樽だとわかるんです。そうなると、自分でその樽を直しにいかなければなりませんでした」

蒸溜所には、たくさんのシェリー樽も運び込まれていた。主にスペインから輸入されたオロロソ樽やクリーミーなタイプのシェリー樽で、こちらは樽材を組み直す必要がない。仕入先はダフゴードンが多かったという。

当時の蒸溜所のオーナーは、大旦那の孫にあたるダグラス・マッケサックだ。ダグラスはすべてのシェリー樽の香りをくまなくチェックし、いちばん良質な樽を個人的なストックに回していた。当時のグレングラントは、ほぼすべてのウイスキーでシェリー樽熟成原酒がある程度ブレンドされていた。

デニスが働き始めた時期は、シェリー樽熟成のウイスキーが特に好まれていた時期だ。ちょうど当時に樽入れされた原酒が、その後60周年にわたって熟成の時を過ごし、マスターディスティラーの勤続60周年を祝うためにボトリングされることになる。

樽職人の見習いとして5年間働いた後、デニスは1966年に生産部門へ異動した。デニスの祖父と父も、同じ部門で働いたことがあった。グレングラントの先達たちに仕事を教わっていた時期をデニスは回想する。

「私はまだ若くて、体もすこぶる健康でした。あらゆる仕事をおぼえてやろうという意気込みにも溢れていました。仕事を教えてくれたのは、みんな50代から60代のベテランたちです。経験豊富な彼らが、何でも教えてくれたんです。若い私にやり方を教えれば、自分たちも楽ができますからね。私はなんでもやってやろうというエネルギーがいっぱいで、老境に差し掛かったベテランたちには経験がある。これは完璧な組み合わせだったんです」

 

ウイスキーは人がつくる

 

ウイスキーづくりのさまざまな工程を6年間にわたって学び、デニスは1971年に26歳でマネージャー職である醸造工程の製造責任者になる。当時の蒸溜所でマネージャーといえば、主に帳簿とにらめっこの仕事が主体だった。原料の仕入れ、樽の売買、ボトリング工場との折衝、そして従業員の生活も保証しなければならない。グレングラントと姉妹蒸溜所のキャパドニック(またの名はグレングラント第2蒸溜所)には、あわせて約60人もの従業員が働いていた。

だがデニスは、そのような帳簿上の仕事だけでなく、実際のウイスキーづくりでもリーダーシップを発揮した。蒸溜所内でのモルティングから樽詰めまで全行程を指揮し、生産に関わる人々にも気を配ったのである。

1972年は、大旦那がグレングラントの生産規模を倍増させてからちょうど100周年にあたる年だった。この年、デニスは再び蒸溜所の生産規模を倍増させる設備投資を管轄した。しかも生産自体にはまったく休業期を設けずに工事を完了させるという計画だった。

60周年記念ボトルの原酒を樽から取り出すデニス・マルコム。15歳でウイスキーづくりの世界に飛び込んだ時期の思い出が脳裏を駆け巡る。

この設備投資の成功をデニスが誇りに思っているのは当然であろう。そのとき新設された蒸溜棟は、デニスが未来に向けて残した確かな功績のひとつと呼べるものだ。

このような功績の数々は、蒸溜所だけでなくグレングラントというブランドやスコッチウイスキー業界全体にも偏在している。デニスがウイスキーづくりを主導してきた長い時期の間に、グレングラントはピートの使用をやめ、蒸溜所内での製麦をやめ、直火式の蒸溜もやめた。それでもハウススタイルであるフルーティでまろやかな酒質はしっかりと堅持している。

デニスいわく、このコアな酒質はグレングラントのスチルの長い首に取り付けられた精溜器に負うところが大きい。そして伝統的な木製の発酵槽や、ダンネージ式の貯蔵庫もまたグレングラントらしい風味を生み出している。どれもみな、若きデニスがここで働き始めた頃と変わらない設備だ。

過去の同僚、現在の同僚、仲間や弟子たちなど、ごく身近にいた人々にデニスの逸話を聞いてきた。彼らの話を総合すると、デニスが蒸溜所全体の経営を担うようになるのは必然であったように思える。誰もが率先して語りたがるのは、デニスの旺盛なエネルギー、尽きない好奇心、グレングラントへの情熱、そして共に働く人々への献身に関するエピソードだ。

このような資質によって、やがてデニスはスペイサイドやそれ以外の地域で数々のウイスキー蒸溜所を成功に導くことになる。だがその後、グレングラントがカンパリグループに買収されたことから、運命の導きによって再びグレングラントへ帰ってくることになった。

デニスは自分のウイスキー人生を次のように結論づけた。

「みんなウイスキーづくりの技術的な側面について話したがりますが、何よりも重要なのは、やはりそこで働く人たちです」

共に働く仲間こそが、60年にもわたってウイスキーづくりを続けてこられた秘密なのだ。いまやスコッチウイスキー界の生きる伝説となったデニス。彼と少しでも同じ時間を過ごす機会に恵まれた人なら、その言葉が真実であると同意してくれるだろう。