あなたの目の前にあるウイスキーは、どのような歴史の変遷を経て現在の味わいになったのだろうか。人類の文明を象徴する蒸溜技術にスポットを当て、その進化を辿る新シリーズがスタート。

文:クリス・ミドルトン

 

初期の蒸溜器は、大きく2つの部品から成り立っていた。すなわちヘッド部分(アランビックやキャピタルとも呼ばれる)とベース部分(キューカービット、フラスク、ケトルとも呼ばれる)だ。ワインやビールのもろみを入れるベース部分にヘッド部分(アランビック)をかぶせて糊状のペーストで密封し、沸騰した気体が外部に逃げないよう閉じ込める原理である。ベースはかまどや直火の上に乗せ、注意深く熱を調整しながら液体を沸騰させる。水は100℃、エタノールは72℃で気化するため、その沸点の差を利用してアルコール濃度の高い液体に蒸溜できるという訳だ。

初期の卓上蒸溜器は分厚い吹きガラス製で、液体を入れられる容量は1〜2Lだった。ベース部分は砂や灰や水の中に入れて使用したり、陶器のコーティングが施されたりしていた。二重鍋のように急激な熱の上昇を和らげ、ガラスが割れたりもろみが変質したりするのを防ぐための工夫である。

このような蒸溜器でつくられていたのは主に一般家庭やコテージなどで少量生産されるスピリッツであり、市場に流通させるほどの生産力はなかった。その後の7世紀にわたって、蒸溜器は形状や構成にたくさんの工夫が施されるが、すべてはヘッドとベースでつくられた原型を踏襲したものだ。

蒸溜器の形状にはさまざまな名前が付けられた。ブリテン島ではベル型、ペリカン型、ツイン型、 トリプルクローズ型、タートル型、ホーン型など。容器をいくつも繋いだ形状で、ジャマイカのラムづくりに使用される蒸溜器に似たタイプのものも出現した。さらには養蜂箱のような外観の複雑な構造で、内部にあるオーブンから小さなたくさんの蒸溜器を加熱するスタイルまで登場した。

16世紀初頭まではガラス製と金属製の蒸溜器が人気だったが、高価で破損しやすいという難点もあった。テラコッタやセラミックの陶器でできた蒸溜器は安価で製造しやすく、熱効率を上げるために内部に釉薬を塗っていた。金属の蒸溜器は真鍮、白目、青銅、銅などの他に、毒性のある鉛までが耐久性と利便性のために使用されていた。

17世紀初頭から銅の価格が下がって入手が容易になると、蒸溜品質に優れていることからスピリッツに最適な素材として優先的に使用されるようになった。1620年以降は、銅製ポットスチルの内側に錫メッキを施し、作用時間を長引かせるためにコイル状のパイプ(ワーム)が取り付けられた。
 

蒸溜器のルネッサンス

 
アランビック蒸溜器でもっとも人気の高かったデザインは、ムーアズヘッドとローゼンフットである。ドイツ語で「薔薇の帽子」を意味するローゼンフットは15世紀初頭までに登場した形状で、ヘッドが円錐形になった空冷式の蒸溜器だ。ヘッドの上に2本目の管を加えることで、原始的な分別蒸溜ができる。円錐形のヘッドを持つ蒸溜器は、ローズウォーターなどの精油や香水をつくるのに適している。

ムーアズヘッド型の蒸溜器が実用化されたのは15世紀後半だ。球根上のヘッドの内部に2つ目の水盤を閉じ込め、その中で水を循環させる。冷却して液化させるため、ヘッドの外側は濡れた布で覆われていた。この様子がターバンを巻いたムーア人の頭部に似ているので、ムーアズヘッド型と呼ばれるようになったのである。

あるバイエルンの鍛冶屋が1519年に初めてムーアズヘッド型蒸溜器にデフレグメーターを取り付け、これがスピリッツの精製を向上させるコンデンサーや還流の働きを部分的に先取りする形となった。

17世紀以降は、主にドイツ、オランダ、英国などで機械製造の技術が向上したことから蒸溜器のエンジニアリングも進歩した。1670年には、ロバート・ボイルが初めて真空ポットスチルを設計。物理学者のドニ・パパンは、1696年にフランスからロンドンに移り住んだ。ロンドンには新型の実験的なスチーム蒸溜器の安全性を向上させる画期的なバルブとピストンがあり、実験や研究に不可欠な環境が整っていたからである。

初期な蒸溜器の構造を示した絵画。ベースに入れた液体を熱して気化させ、ヘッドで再び液化したものをコンデンサーで取り出す。

政治や宗教の対立が深刻化していたドイツからは、戦火を逃れて大勢の蒸溜技師たちがオランダの各地とアントワープに移住した。16世紀のアントワープは欧州最大の国際市場になり、貿易港を拠点に蒸溜技術の普及を促す役割も果たした。

オランダは17世紀までにビール醸造および酵母研究における欧州の中心地となり、欧州最大の輸送船団が大量の穀物をバルト海諸国から海岸近くのビール醸造所やスピリッツ蒸溜所に届けていた。さらにオランダは、1600年までに欧州の銅貿易を掌握。熟練した加工技術とエンジニアリングの手腕で優れた蒸溜設備を製造し、フランスのブランデー、西インド諸島のラム、東欧のウォッカ、南西アジアのアラックに影響を与え、スコットランドのウイスキーにも近代化を促した。

1585年のアントワープ包囲戦後、何千人ものフラマン人がロンドンへと移り住んだことから、オランダのジュネヴァーが海を渡って英国のジン業界が生まれる礎を築くことになる。スコットランドでは、1740年代に招聘されたオランダ人のヘンリカス・ヴァン・ウィンガルテンが農業技術のアドバイスを提供している。その内容は、国内の農場でつくられているアクアヴィータの品質を向上させ、蒸溜酒づくりをさらに隆盛させる秘訣だ。

もうひとつ特筆すべき蒸溜装置の進歩といえば、ボローニャ大学のタッデオ・アルデロッティが1280年代にコンデンサーを発明したことも見逃せない。 彼が造った「カナーレ・セルペンティウム」は、冷水槽に沈めたシンプルな金属管である。この装置が一般に広がるまでは数世紀の時間を要したが、ある程度の生産量をこなす蒸溜所には不可欠な仕組みとなっていった。

健全で経済的なスピリッツをつくるために、蒸溜室には蒸溜器を効率的に熱する新型のかまどや防火性の建屋も必要になった。さらには安定した酵母株、穀物、醸造設備、樽加工の技術なども欠かせない。ロンドンとオランダでは、蒸溜は田舎の農場でおこなう個人事業から都市で商業的におこなう大量生産へと変化を遂げた。

1743年までに、ロンドンではモルト原料のスピリッツが毎年約800万ガロンも生産されるようになり、その大半はジン用だった。同時期にスコットランドでは約30万ガロン、アイルランドでは約25万ガロンのモルトスピリッツまたはウスケバが生産されていた。
(つづく)