産業革命で生まれたスチーム蒸溜に対し、政府や税務署は難色を示す。それでも発達してゆく連続蒸溜の技術は、ブレンデッドウイスキーの大量生産に道を開いた。

文:クリス・ミドルトン

 

英国で1785年7月に特許が認められたスチーム蒸溜。確かに生産効率に優れていたが、間接税税務局からの抵抗に直面することになった。その後の20年にわたって、英国の当局は特許取得済みのスチルが伝統的なポットスチルの基準を満たしていないとして不適合の扱いを続けたのである。連続蒸溜の黎明期における発明は、多くがこのような政府機関による抵抗を経験した。

グレーンウイスキーを生産する現在のガーヴァン蒸溜所。連続蒸溜機の誕生は、ブレンデッドウイスキーの量産を容易にし、消費者の嗜好にも少なからぬ影響を与えた。

アイルランドのロスクレアにあるバーチグローブ蒸溜所のジョージ・バーチ、コークにあるグリーン蒸溜所のジョセフ・シー、コーク近郊にあるスプリングレーン蒸溜所のアンソニー・ペリアーらも初期の連続蒸溜装置を開発して同様の問題に直面している。

1827年から、ダブリンにあるドック蒸溜所のアイネアス・コフィーと、スコットランドにあるカークリストン蒸溜所(およびアトリーズ・ワンズワース蒸溜所)のロバート・スタインが裁判に向けたロビー活動を展開した。自分たちが開発した新しいスチーム加熱式の連続蒸溜について、新たな基準が定められるべきだと訴えるためである。

この時期に政治と軍事の激動を経験していたフランスでは、ビートや果実を原料にしたスピリッツの業界で新しい発明への渇望が高まっていた。1801年、エドゥアール・アダムは、ジュズィッピ・サルッツォとヨハン・グラウバーのウルフ瓶を応用して、卵状の装置を使った準連続蒸溜機を量産化することに成功した。この卵の数によって、最終成果物であるスピリッツのアルコール度数が変わる仕組みである。

水平式のコラムスチルを開発したのは、ローラン・ソリマニだった。1813年には、ミケーレ・バリオーニがポットスチルに着脱できるコラムを製造。1808年にはジャン=バティスト・セリエ=ブルメンタールが内部でコラムを分別した最初の縦型スチルを製造して1813年に特許化した。この特許にはベルやバブルキャップと呼ばれる装置を縦型コラムの内部プレートに装着する発明も含まれており、後からジャン=バティスト・フールニエが2つ目のコラム型連続蒸溜機を追加することになった。その後、著名な蒸溜エンジニアであるアルマン・サヴァルとルイーズ=シャルル・ドゥローンも改良を加えた。

ワイン、穀物、ジャガイモ、糖蜜と原料はさまざまに異なるが、人々は西ヨーロッパ各地で互いのアイデアをもとに機器の改良を続けた。ロンドン蒸溜所はセリエ=ブルメンタールのアイデアを取り入れてジョセフ・コーティのコンパウンドスチルを改良し、ドイツのヨハネス・ピストリウスがライウイスキーや濃厚なマッシュにも対応するダブルスチルを考案した。この蒸溜機は1回で度数85%のスピリッツをつくることができた。

1823年に英国へ移住したフランス人のジャン=ジャック・サン=マルクは、自身が特許を取得した連続蒸溜機をニコルソン蒸溜所に設置。その後、ベルモント蒸溜所のウィリアム・フェローズと一緒に会社を設立した。だが当時の検査官は、この連続蒸溜でつくられたスピリッツは純度が高すぎると評価した。
 

蒸溜時間の短縮と量産を促した税制度

 
1787年、スコットランドで新しい免許制を含む改正ウォッシュ法が施行されると、薄くて浅い形状のスチルで蒸溜時間を短縮しようと考えるローランドの蒸溜所がいくつも現れた。これは政府が最終製品の量ではなく、スチル内部の容量(体積)に対して税率を課すようになったためである。蒸溜所としてはエンジニアの工夫によって先手を打ち、少しでも効率的にスピリッツを量産したいと考えたのだ。

ある蒸溜所では、24時間ごとに480ガロン(約2200L)のチャージを処理できるまでに生産効率を上げた。この浅い形状のスチルを使った高速蒸溜はすぐにアメリカでも応用され、ロバート・クラフトが設計した新型スチルが1804年までに217基も国内で導入された。だがスコットランドと同様に、最初はアメリカでも壁にぶち当たった。一部のスピリッツが健康を害するという問題が発生したからである。平型スチルはスコットランドで20年間にわたって最先端の研究対象になったが、ハイランドではまだ小さなアランビック型のポットスチルが一般的に使用されていた。

イングランド、フランス、スコットランドでは、短期間ながら木製蒸溜器が試されたこともある。フェッターケアン蒸溜所で1820年代後半にウィリアム・シャンドが実験をおこなったところ、木製蒸溜器ではウォッシュ(もろみ)の詰まりがないので、スピリッツのアルコール度数が上昇したのだ。だがこのような木製蒸溜器も、やがて生産効率の悪さが際立ってくる。1830年代にアイネアス・コフィーとロバート・スタインが銅製の連続蒸溜機を製作すると、すっかり出番がなくなってしまったのである。
(つづく)