スコッチウイスキーと同様に、コレクターアイテムとしてオークションでも取引されるようになったケンタッキーバーボン。その歴史をあらためて紐解き、将来の展望を探る2回シリーズ。

文:マギー・キンバール

 

歴史的な文脈からみて、ケンタッキーバーボンは農産物の一種であると考えるべきだ。コレクターズアイテムとして人気がある他の多くの商品とは異なり、バーボンウイスキーは役員会議や商品企画室から生まれるものではない。サングラスやスニーカーのように、口コミで急速に広まるような戦略で製造される商品ではないのだ。

約200年前に「バーボン」と呼ばれはじめたスピリッツは、農産物を加工して自然な保存技術で熟成する。ゆっくりと時間をかけながら品質を改善し。ようやく世に送り出されるという伝統は今でも変わらない。

新大陸にやってきた移民たちが全米各地を開拓していく過程で、スチルを保有していることは塩や十分な淡水を確保するのと同じくらい重要な条件だった。産業が発展していない未開の地で、薬品、保存食品、消毒液などを自力でつくるためにはスチルが必要だ。そのような必需品を交易して自活するためにも、スチルは不可欠な存在だった。

1753年に創業し、アメリカ建国以前からペンシルバニア州でウイスキーをつくり始めたミクターズ蒸溜所。ケンタッキーバーボンの歴史は、州外にもさかのぼることができる。

今日「バーボン」と呼ばれる製品ができあがった歴史的経緯は、『Kentucky Bourbon Whiskey: An American Heritage(ケンタッキーバーボンウイスキー:アメリカの遺産)』という本で解説されている。著者のマイケル・ヴィーチは、バーボン歴史家として史実を丁寧に追いながら真実を解き明かした。一読すれば、多くの消費者を惑わしてきたマーケティング上の噂やほのめかしから解放されることになるだろう。

いわゆる「ウイスキー・レベリオン」と呼ばれるウイスキー税への反乱は、ヴィーチが著作のなかで取り上げている誤解のなかでも特に広く信じられている。ジョージ・ワシントンが独立戦争の戦費を賄うべくウイスキーに徴税したとき、蒸溜業者たちが北東部の各州から逃げ出して、酒税のないケンタッキーにスチルをもたらしたという俗説のことだ。だがヴィーチが著書で明らかにしている通り、ケンタッキー州ではウイスキー・レベリオンのはるか以前から蒸溜酒が広く製造されていた。

過去200年にわたって、バーボンづくりは継続的な技術革新によって品質や生産効率を改善してきた。それでもバーボンという飲料の本質は、ほぼ変わらずに受け継がれてきたといえる。ヘブン・ヒル社長のマックス・シャピラが、創業期の逸話を教えてくれた。

「父によく聞かされた話は、ウイスキーづくりという事業には辛抱と忍耐が必要だということです。ウイスキーは一夜にして出来上がるものではありません。ヘブン・ヒルは、大恐慌の最中である1935年に創設されました。蒸溜所もなく、原酒の蓄えもなく、貯蔵庫の設備もなく、ブランドの知名度もゼロの状態から、素人が大きな賭けに出るような事業を始めたのです」
 

消費者保護法で近代化し、禁酒法で苦境に

 
ケンタッキーバーボン業界の近代化が本格的に始まったのは、ボトルド・イン・ボンド法が制定された1897年のことだ。これは米国で最初に作られた消費者保護法のひとつであり、要するにボトルの中身がラベルに記載された通りであることを保証するものだ。法律としては、それ以上でも、それ以下でもない。

「高貴な社会実験」のスローガンで施行された禁酒法。密造酒の取り締まりは厳しく、バーボン業界も壊滅的な打撃を受けた。

それ以降もウイスキーに関するさまざまな規制が追加された。だがケンタッキーバーボンにとって最初の黄金期となるはずの時代は、「高貴な実験」の号令で施行された禁酒法によって中断を余儀なくされた。ヴィーチの指摘によると、歴史上のウイスキー関連法はすべて消費者の権利を保証することが目的だったが、この禁酒法だけが消費者の権利を奪うために制定された唯一の例外なのだという。

禁酒法によって、農場蒸溜所の時代は少なくとも数十年間にわたって終焉した。たくさんの蒸溜所が禁酒法によって失われたが、なかには医薬品の販売でなんとか生き残った蒸溜所もあった。シャピラ家が創業したヘブン・ヒルのように、禁酒法撤廃にあわせてスタートした新しい蒸溜所もあった。

また禁酒法撤廃にあわせて、たくさんの法律や規制が新たに作られた。これらのルールは、ボトルのサイズやラベルの標準化など、今日の私たちが当然のものと認識しているものばかりである。

禁酒法撤廃によって、米国内でのアルコール販売が再び合法化された。しかし同時に、アルコールの販売や流通に関する法律は各州の裁量に委ねられることにもなった。その結果、米国内のアルコール飲料業界は、世界でも類を見ないほど複雑化することになったのである。

禁酒法が撤廃されてからの黎明期には、ヘブン・ヒル、スティッツェル・ウェラー、ジェームズ(ジム)・B・ビーム、ブラウン・フォーマン、ライピー・ブラザーズ、シーグラムなどの蒸溜所が近代バーボンブームの原型を形作った。それでも戦時中の生産制限やウイスキー人気の衰退によって、大きな停滞期も経験している。本格的なバーボン人気が到来したのは、ほとんど20世紀が終わろうとする頃だった。
 

ヘブン・ヒルから見たバーボン業界の発展

 
シャピラ家のヘブン・ヒルは、歴史あるバーボンブランドをできる限り買収しようと努めてきた。この買収方針にはケンタッキーの歴史を保全していこうという狙いもあり、歴史の遺物となりかけたブランドの多くが救われることになった。マックス・シャピラが一族の歴史を回想する。

「1939年にオールド・ヘブン・ヒルというウイスキーブランドを買収したら、ここケンタッキー州で最大の売上を誇るブランドになりました。それで私の家族は、ウイスキーづくりが長期的に発展させられるビジネスになるかもしれないと思ったようですね」

ケンタッキーバーボンの人気が1990年代後半に高まってくると、それまではさほど重視されていなかった蒸溜所のビジターセンターがウイスキーファンの目的地として注目されるようになった。そんなニーズに応えるため、1999年には「ケンタッキー・バーボン・トレイル」のルートが公式に整備された。

ヘブン・ヒル現社長のマックス・シャピラ。シャピラ家は禁酒法後にたくさんのバーボンブランドを買収して伝統の存続に貢献した。

マックス・シャピラの従兄弟にあたる故ハリー・シャピラは、ルイビルのウイスキーロウ沿いにオフィスを維持していた。だがキャリアの終盤で、そこを小さなサテライト蒸溜所にしてビジターセンターも併設しようというアイデアを思いついた。マックス・シャピラは来場者が歩きながら観察できるミニチュアの蒸溜所をウィンドウディスプレイに展示しようと考えた(ニューヨーク旅行で同様の展示を見たのである)が、ハリーはもっと先を読んでいたのだとマックスはいう。

「きちんとしたビジターセンターができる前から、お客さんが予約もなくオフィスに立ち寄って、『ウイスキーづくりに興味があるので、ちょっと生産現場の様子を見せてくれないか?』と頼んでくることがよくあったのです。だからハリーは、ビジターセンターに興味のある人が大勢いることにちゃんと気づいていました。でも今日のように、世界中の人々がバーボン・トレイルを目指して押し寄せるような爆発的人気は誰も予測していませんでしたね」

ビジター体験を強化すれば、ブランドへの認知度も高まる。ヘブン・ヒルは、世界中からやってくる来場者と1対1で話せるような濃密な体験に価値を見出した。マックス・シャピラの回想は続く。

「そこで2004年、バーズタウンで最初のビジターセンターを開設しました。その結果、世界中からやってきた来場者のみなさんと個人的な素晴らしい関係を築けるようになったのです。この成功に続き、約8年前にはルイビルでエヴァン・ウィリアムズ・バーボン・エクスペリエンスをオープンしました。一箇所で年間数十万人もの人々に影響を与えることができる施設です。そうやって来場した人々が、それぞれの地元に帰ってビジター体験を伝えてくれます。バーボンウイスキーは、アメリカ合衆国でしかつくられていないオリジナルな産品。その魅力を体験者たちが広めてくれるのです」
(つづく)