ウイスキーの新天地、タスマニア【前半/全2回】

March 16, 2017


成長著しいオーストラリアンウイスキーのムーブメントは、1990年代のタスマニアから始まった。ウイスキー史の研究家として知られるフィリップ・モーリスが、新しい南半球のウイスキー文化を紐解く2回シリーズ。前半は、タスマニアンウイスキーの父、ビル・ラークが主人公だ

文:フィリップ・モーリス

 

オーストラリア大陸の南西沖に浮かぶタスマニア島は、肥沃な大地に恵まれた少宇宙である。スコットランドとほぼ同じ面積だが、人口はスコットランドの約10分の1。ここから産出されるウイスキーが、新しいフレーバーを求めるモルトマニアに注目されてしばらく経つ。

意外なことに、タスマニアはもともとウイスキーで満ち溢れた島だった。植民がおこなわれて間もない時代には、ウイスキー蒸溜所が16カ所もあったという記録がある。しかし地元のビール醸造関係者が、ハードリカーのウイスキーよりもビールのほうが社会的に健全であるとロビイング活動をおこなった。その結果、ウイスキーの蒸溜は1839年に禁止されてしまうのである。

そしてタスマニアにおけるウイスキーづくりの歴史は、ビル・ラークの登場まで封印されることになった。このビル・ラークこそ、蒸溜禁止法を取り消して法令を改定し、スチル容量の下限を妥当なラインにまで押し下げることによって、小規模なウイスキーづくりが再開できるよう政府に働きかけた人物である。ウイスキーの禁止から153年後の1992年、この地でウイスキーづくりが静かに復活。モルトウイスキーを愛するビル・ラークの夢は、周囲の人々も触発しはじめた。

もともとタスマニアには、良質なモルトウイスキーを生み出す条件が備わっていた。澄んだ空気と水があり、ビール醸造に使われてきた良質な地元産の大麦もある。ウイスキーづくりに適した場所であることは、すでに証明済みのようなものだった。

だがそれを具現化するには努力も必要だった。タスマニアンウイスキーの再興に尽力した人々には、ビル・ラークの他にパトリック・マグワイア(サリヴァンズ・コーヴ)、ケイシー・オーフレイム(オールド・ホバート)らがいる。彼らに適切なアドバイスを提供して産業全体を軌道に乗せたのは、ブライアン・ポークの功績だ。彼はクレイドル・マウンテン・ウイスキーとヘリヤーズ・ロードに深く関わり、最近はコーラ・リン蒸溜所で働いている。

 

地元のウイスキーを世界レベルにまで押し上げたビル・ラーク

 

タスマニアンウイスキーのみならず、オーストラリアンウイスキーの父として知られるビル・ラーク。1992年にこの地でウイスキーづくりを始め、大勢の仲間たちの起業を支援してきた。

オーストリアンウイスキーの父として称えられるビル・ラークは、今でも生ける伝説である。ブランドアンバサダーという本来の役割をはるかに越え、実際にはタスマニアのウイスキー産業をアピールする非公式な大使の役割も長年にわたって果たしてきた。同志たちと協力しあいながら、この地のウイスキーづくりを盛り上げていくのが彼自身の望みだ。その甲斐あって、タスマニアンウイスキーは驚くほど短期間でひとつのジャンルとして定着できたのである。

タスマニアのウイスキーメーカーで、ビル・ラークからアドバイスや励ましを得なかった者はほとんどいない。ウイスキーづくりという未知の旅には、いつも彼の経験が必要不可欠だった。自身のブランドやタスマニアンウイスキー全体の成功に加え、スコットランドのウイスキー業界とも緊密な関係を築いた功績が認められて、ビル・ラークは2015年に南半球出身者として初めてウイスキーの殿堂に仲間入りを果たす。この名誉もまた、ビル自身はもちろんタスマニアに世界のウイスキー関係者が注目するきっかけにもなったのである。

典型的な「実行の人」であるビル・ラークは、ウイスキーの殿堂に選ばれたことで満足したりはしない。その名誉に相応しいウイスキーをつくるべく、さらに新しい試みを続けている。最近は、ヘブンヒルから入手した200Lのバーボン樽にラークのシングルモルトを貯蔵し、オーストラリア南部のセッペルツフィールドから入手した90年物のポート樽でフィニッシュした。これを樽出しのままノンフィルターのカスクストレングス(66%)でボトリング。総量わずか220本の商品で、ラークのウェブショップで瞬く間に完売した。このウイスキーの出来ひとつだけでも、充分ウイスキーの殿堂入りに相応しい品質であると私は思っている。

 

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