ロッキー山脈やイエローストーン国立公園などの大自然で知られる米国ワイオミング州。この地で未経験からウイスキーをつくり始めたチームの10年間を振り返る2回シリーズ。

文:マーク・バイロック

 

ブラッド・ミードとケイト・ミードの夫婦が、ワイオミング・ウイスキーを設立したのは10年ほど前のことだ。

当時の彼らは、小麦をマッシュビルに重用したスムーズなケンタッキーウィーテッドバーボンをお手本にしたいと考えていた。そこでケンタッキーバーボンのメーカーに倣ってウイスキーづくりを始めたが、実際にできあがったウイスキーはかなり趣きが異なるものになっている。テロワールの違いが影響したのだろうか。それとも周囲の環境が独自のウイスキーを育てたのか。

過去10年の歴史は、ワイオミング・ウイスキーの人々、周囲の自然、数々の失敗や試行錯誤にまつわる物語だ。乾燥したワイオミング州のステップ気候、人口の少なさ、農業主体の経済は、アメリカンバーボンやライウイスキーの生産に理想的ともいえる。だが成功への道のりは決して平坦なものではなかった。

ミード家は、1890年から代々牧場を営んできた。しかしイエローストーン国立公園の近くで飼っていた家畜が、付近に棲むヘラジカ経由でウイルスに感染するという出来事が起こる。そんなことを景気に、そろそろ他の事業も始めて家畜全滅の危険を回避しようと考えるようになった。

家族はヘラジカとの接触を少しでも避けようと、ジャクソン近郊の土地を売って、はるか東にあるワイオミング州カービーの牧場用地を買い足した。このとき、牧場用地を他の用途にも使用できないかとさまざまな案を練った。

ケイトはワイナリーでも開業しようかと考えたが、土壌がワイン向けではなかった。それでもカービーは穀物の生産に適している。いろいろ調査を進めて見当を重ねるうちに、ウイスキーづくりこそが相応しい事業ではないかと思うようになった。

ケイト・ミードとブラッド・ミードは、法律事務所で同僚だったことのあるデビッド・デファジオに蒸溜所の共同経営を持ちかけた。デファジオはパートナーシップの締結を承諾したが、実際のところこれから何をするのかわかっていなかったのだという。

ワイオミング出身ではないデファジオだが、これまで人生の大半を州内で過ごしてきた。スキーやフィッシングへの愛が高じて移り住んだが、そんな趣味と同様の情熱をワイオミング・ウイスキーにも注いでいるのがよくわかる。

 

最初のビッグイベントで大失敗

 

ケンタッキーでウイスキーづくりについて調査をしている間に、デービッドとブラッドはよく先輩たちから忠告されたものだ。蒸溜所の経営は、予想より3倍も大変で、コストや時間も予想より3倍はかかるのだと。ブラッド・ミードが率直に語る。

「そう忠告してくれるケンタッキーの関係者たちは、きっと他州にライバルが出現してほしくないからそう言っているのだと思っていました。でもケンタッキーではたくさんの有益なアドバイスが最初からもらえました。それをしっかり実践していけるほどの知識がまだなかったのですが」

伝統ある畜産業の副業として創設されたワイオミング・ウイスキー。ケンタッキーでノウハウを学んだが、現地での前例はなく試行錯誤のの連続だった。

当時はま2006年頃で、新しい蒸溜所開設で参考にできる前例がほとんどなかった。だがミード夫妻とデファジオは、最も重要な事項で正しい決断をすることができた。メーカーズマークで30年の蒸溜経験があるスティーブ・ナリーを雇い入れたのだ。

ミード夫妻はその時点でケンタッキー流のバーボンづくりを志向しており、しかもライ麦ではなく小麦を使用したレシピでバーボンをつくろうと考えていた。そのモデルとなったのが、似たようなレシピを採用しているメーカーズマークやパピーヴァンウィンクルだったのである。

難しいと思っていた蒸溜のプロセスは、思ったよりも簡単なことがわかってきた。ワイオミング州は標高が高く、空気が薄いので沸点が低い。数ヶ月の試行錯誤を経て、樽入れするに相応しいスピリッツを完成させることができた。

最大級の困難は、操業開始からわずか3年後にやってきた。 ワイオミング・ウイスキーとして、初めてのバーボン商品をケース販売したときのことである。1,500人を収容できるワイオミング州最大のテントを貸し切り、発売記念パーティーを開催したら4,500人もの来客が押し寄せてしまった。

そこまでは良かったが、残念なことに新発売のバーボンはまだ商品として販売できるほど熟成されていないことがわかったのだ。デービッドは振り返る。

「今になって思い返すと、安っぽい粉ジュースみたいな味のウイスキーでした。みんなに熟成不足だと指摘されましたよ。私としては、樽入れしたときからスピリッツをテイスティングしているので、最初よりはかなり美味しく変化したと判断してしまったのです」

それでもウイスキーはオンラインで発売から1分後に完売してしまった。デファジオもこのいきさつを回想しながら言う。

「あの一件は、ほとんど自分のせいだと思っています。私が間違っていました」

セールスは成功したものの、ウイスキーファンからの評価はとても手厳しいものになった。蒸溜所のチームは、情熱が先走りすぎてフライングしてしまったのだ。デファジオはウイスキーを購入した人々の家を訪ね、買い戻しを提案した。そしてもっと上質なバーボンができたら、あらためて発売すると約束したのだ。
(つづく)