森の蒸溜所「白州」
山崎に遅れること50年、サントリー第2の蒸溜所として1973年に設立された白州蒸溜所。伝統に革新を加えたウイスキーづくりが、近年ますます世界の注目を集めている。南アルプスのふもとに位置する「森の蒸溜所」を案内してくれたのは、元工場長の宮本博義氏。
Report : デイヴ・ブルーム
森がはぐくむウイスキー
南アルプス、甲斐駒ケ岳。花崗岩の斜面を覆う松林から、涼風が吹き抜けてくる。森の中には様々な建物が点在しているが、サントリー白州蒸溜所の全貌はミュージアムの展望ブリッジに上るまでわからない。大自然に抱かれた複合施設の壮観は、サントリーの決意を象徴している。70年代の経済成長と、飽くことを知らないウイスキーへの渇望が、当時世界最大級のモルト蒸溜所をこの南アルプスの地に建設させたのである。敷地面積約82万㎡、標高約700m、年間約13万5千人の訪問客、約40万個のカスク。この数字だけで、白州の真価を語るのは早急である。サントリーがここを蒸溜所建設の地に選んだのは、単に広大な土地があったからではない。ポイントは、気候、水、地質。白州蒸溜所の元工場長、マイクこと宮本博義氏(現在はウイスキー部品質担当ゼネラルマネジャー)はこう切り出した。
「科学や設備だけではなく、自然条件が白州の品質を決めます。ここは山崎よりも50年若い蒸溜所ですが、その50年間に学んできた技術上の見識が大きな助けとなりました。山崎蒸溜所が暗中模索で始めたのに対し、白州蒸溜所は当初から計画的。しかし、どんなウイスキーをつくりたいのかはわかっていたものの、どんな性格のウイスキーが生まれるかはわかりませんでした。母なる自然の助けによって、蒸溜所の個性は決まるのです」
ラジカルな透明感
どちらかといえば、白州は山崎よりもラジカルだ。ノンピートからヘビーピートまで4種類の大麦が使われている。スモーキーさの度合いは異なっても、白州のスピリッツにはひとつのテーマが通底している。それはフレッシュネスだ。麦汁作りから始まる工夫が、その秘密であると宮本氏は説明する。
「濁った麦汁は、太陽にかかる雲のようにアロマを覆い隠します。私たちは透明な麦汁と濁った麦汁でたくさんの実験を行い、透明な麦汁がクリアなアロマをもたらすことを発見しました。伝統を重んじながら、革新的な挑戦を行うのも私たちの仕事。粉砕方法もそのような新しい伝統のひとつです」
サントリーは、ウイスキーの個性を守るためなら多少の損失を厭わない。約3日に及ぶ長時間の発酵は、ブルワーズ・イーストとディスティラーズ・イーストによって導かれる。発酵が木製のウォッシュバックで行われるのも特徴のひとつだ。
「科学的に理由を解明したわけではないのですが、官能検査の結果から、ブルワーズ・イーストが複雑さとコクを生み出していることが明らかになっています。木製のウォッシュバックという環境とブルワーズ・イーストが乳酸菌を活性化し、香り高いエステルとクミーミーさをスピリッツに与えているのです」
何度訪ねても、畏敬の念を禁じえないのがスティルハウスである。薄明かりの中に6つの初溜釜と6つの再溜釜が、鈍い光を放ちながら鎮座している。手を伸ばせば、その神秘的な魔法にも触れられそうだ。対になって稼働するそれぞれの蒸溜器は、背の高いもの、ずんぐりとしたもの、細いもの、小型のものと形状はさまざま。最も小さいふたつの再溜釜は、大きな初溜釜と対をなしている。ラインアームが上下に伸びて、ワームや冷却器に原液を分離させる。蒸溜置換できる量も膨大だ。
私はその場で計算を試みた。4種類のモルトと6対の蒸溜器で、24種類の異なったタイプの原酒ができる。熟成に5種類のカスクを使用するのだから、100種類以上の異なったスピリッツが得られることになるのではないか。宮本氏に問いかけると「理論上はそうなりますね」と笑顔を見せる。
熟成は主としてアメリカンオーク樽の中で行われる。様々な加減のリチャーで炭化再生した樽もあり、シェリー樽もわずかに用いる。
「シェリーはいつも縁の下の力持ち。表立って主張はしませんが、その香りはいつもひっそりと内在しています。使用するのはごく少量ながらも、モルトの大切な一部です」
立地条件の関与するところは大きい。南アルプスの山岳地帯にある白州は、山崎よりもかなり涼しく湿度も低いため、それだけ熟成に長い時間がかかる。おそらくこの自然環境が、白州のウイスキーを象徴する涼しげなハーブ香とフレッシュさを育てているのだろう。
眠りから覚める巨人
以上のような白州蒸溜所の個性は、一朝一夕で作り上げられたものではない。実はオリジナルは、今日とかなり異なっていた。現在の蒸溜器の多くは2004年~2005年に設置されたものであるが、そのうち最大の蒸溜器(1981年設置)の倍もある巨大な蒸溜器を使っていた時代もあった。経済と流行の変化が、ウイスキー産業にもたらした沈黙の光景を前にすると、パーシー・ビッシュ・シェリーの詩が頭の中にこだまする。「全能の神よ、我が業をみよ、そして絶望せよ」(“オジマンディアス”より)と。
「最初の蒸溜器を製造したときは、原酒のバリエーションと同時に量の多さも求められました。しかし2代目の蒸溜器を作ってから2年後(1983年)が日本のウイスキー市場のピーク。それ以降はニーズが減少し、蒸溜の目的が変化したのです」 簡単にいえば、ブレンドからモルトへの切替え。しかしその後も紆余曲折があったと宮本氏は振り返る。
「新しい蒸溜器を製造したとき、シングルモルトをつくろうという明確な考えはありませんでした。1984年に山崎ブランドを打ち出したものの、市場の行く末は不明。90年代にブレンドからモルトへ製造を転換するときでさえ、ウイスキー業界は苦闘の只中でした」
しかしながら、今や白州はついに第一線のモルトとなり、ハイボール世代をステップアップさせるウイスキーとして認知されている。白州はいよいよ本領を発揮し、確固たるブランドとして独り立ちできるのか?
私の問いに、宮本氏はこう答えた。
「率直にいえば、まだまだ議論の余地があるでしょう。白州は、いまだに完成へ向かう道の途上なのです」
近年、日本のウイスキーを愛好する海外の人々が、口々に白州を賞賛するのをよく耳にする。隠れた蒸溜所、眠れる巨人というのが、この蒸溜所のイメージだ。 松林を吹き抜ける風は、「白州の時代がやってくる」と静かに囁いているようだった。