ドリンカーズガイド 横浜【その1・全2回】

December 11, 2012

横浜は、日本で最初にウイスキーが上陸した場所だ。つまり、日本で最初にウイスキーが飲まれた地となる。この横浜で、日本のバー文化は誕生し、最初のカクテルが作られた(バンブー=横浜発祥のカクテル)のだ。したがって、WMJが素晴らしいバーとの出会いを求めて横浜の街に繰り出すのは、非常に理にかなっていると思われる。(2009年秋号掲載)

私たちがガイド役を依頼したヨコハマ・マイク(マイク・マーフィー氏)は、完璧なルートを計画してくれただけでなく、ひとつの場所から次の場所に移動するのにかかる時間まで詳しく調べ上げてくれていた。私たちが到着したのは、かなり早い時間だった。「下ごしらえをしてから」と、マイクは言う。私は彼の言葉を、ビールを1杯やりながら今日の予定を確認することを意味するアメリカの常用句なのではないかと受け取った。
マイクが今晩のスケジュールを書いた紙を私たちに手渡していたちょうどその頃、バーを目指す最初のサラリーマンたちが駅から出てきた。彼らの笑顔からは、金曜の夜の開放感と、地元に戻ってくつろげるという安堵感がにじみ出ている。楽しそうにおしゃべりをしながら私達のいるバーに入ってきた数人の女性たちが、席についてワインを注文している。
日本に住む私の知り合いは皆、横浜は東京よりも住みやすいという。家賃が東京より安いというだけでなく、生活のペースが東京よりものんびりしているというのだ。ここでは、あまり慌てるという感覚がないのかもしれない。もっとも、私たちは最終の電車で渋谷に戻らなければならないのだが。

全く特徴のないビルの外の歩道に、比較的大きな看板が出ていなければ、私たちが最初に訪れたバーを見つけることはできないかもしれない。バーはたいてい、ひとつの階に3軒といった具合に、小売店やレストランに囲まれていたりするものだが、実利第一のような簡素なビルの2階にあるグローリーは、見事なまでに他から孤立している。どこまでも続く赤いリノリウムの床の先には、何もないのではないかと疑い始めた頃、トイレの前を通り過ぎたと思ったその時、灰色の壁から突如、タイルと木の外装が出現する。扉を開け、よろめきながらステップを上がると、そこには棚以外何もない。実際、元は本当にただの戸棚だった場所なのかもしれない。

それが今では、赤と緑のベルベット張りのスツールに、8人が座れるようになっている。あまりに小さいその店では、先ほど通り過ぎたトイレはこのバーのためのもので、バーテンダーの田村誠氏は、一旦横手のドアを出なければ、カウンターのこちら側に来ることができない。それはまるで、村上春樹の夢の空間のような場所だった。半分本気で、羊男が話しかけてくるのではないかとさえ思ったほどだ。それが現実に起きたとしても、ちっとも不思議ではなかった。知らない者同士がおしゃべりをするというのは、お店の造りだけが関係しているだけではなく、どうやら横浜の習慣のようだ。横浜のバーでは、人々は極めて開放的になるらしい。

田村氏の説明によると、この店のオーナーである宮内氏(同名のバーを同じく横浜の大倉山でも経営している)は、本当のウイスキー通だけがやってくるような、どこにもないような店を作ろうと考えたのだと言う。横浜にアメリカの影響が公然とあるとするならば、それは1920年代のスピークイージー、つまり禁酒法時代に当局の目をかいくぐって酒を売っていた場所のような店だ。1981年に開業したこの店の、暖かい木のパネル張りの壁は今では、インディペンデント・ボトラーの傾向が強く、またどれほど高くとも1杯3,000円前後という、コストパフォーマンスを何より大事にする横浜らしさを色濃く繁栄した品揃えの150本ものウイスキーで埋め尽くされている。新しいボトルが次々と導入され、品揃えは常に変化している。

私たちは、いつもの「とりあえずハイボール」を頼んだが、これも他とは一味違っていた。田村氏は山崎10年に山崎12年を少量加え、深みを与えたハイボールを出してくれた。素晴らしいひとひねりと言えよう。初めて味わった新しい白州ヘビリーピーテッドに誘われ、店の居心地のよさも手伝い、思わず腰を落ち着けてしまいたくなったが、次の店が私たちを呼んでいる。私たちはあの奇妙な廊下に出て、いくつもの特徴のないドアの前を通り過ぎ、再び機能的な世界へと戻った。もし、後ろを振り返ったらグローリーが跡形もなく消えていたとしても、私は驚かなかっただろう。

この近くに、バー・シープという素敵な名前のバーがある。10人ほどでいっぱいになってしまう店内に陣取った私たちが最初に発した質問は、「名前の由来は?」だった。

「私が未年生まれだからですよ」と、石川氏は言った。「それに以前、スコットランドに行ったとき、人より羊の数の方が多いことを知ったんです」非の打ち所のない論理だ。この店には、希少なウイスキーが数多く揃っている。豊富な品揃えの「店主のお勧め」を見ても、かなり激しいオークションの取引の末の戦利品であろうことがよくわかる。それは居心地がよく、静かで穏やかな雰囲気の店であり、ウイスキーファンにとっては隠れ家のような、楽園のバーだ。「これ、おもしろい香りがするよ」と言いながら、ヨコハマ・マイクが自分のグラスをそっと渡してくる。

マイクはまた別の場所を目指して歩いていく。グローリーからカサブランカまでは歩いてジャスト12分かかる。驚いたことに、彼はそれをピタリと当てた。多分それは、彼が海軍で培った能力なのだろう。私たちは、関内のあたりにやってきた。ここは、最初の外国人貿易商たちが居を構え、それ故に日本発の西洋式バーが誕生した場所だ。オーナーの山本氏は、その150年の伝統を、非常にモダンな日本様式で受け継いでいる。

ビルの入口は、ちょっとショッキングであると言わざるを得ない。白の漆喰とイオニア風の支柱がちぐはぐなファサードがそう思わせるのだ。カサブランカは、その建物の地階にあり、トルコ石とピンクサファイアに囲まれている。あの支柱は、この店のために取り付けられたものなのかもしれない。だが実際は、そんなことはどうでも良い。私達の目的はあくまで、美味しい酒を飲むことなのだから。グローリーシープが、ウイスキー愛飲家たちのための店だとしたら、カサブランカは絶対に外せないカクテルバーだ。またウイスキーが飲みたくなっても、約100種類のウイスキーが揃っている。

私たちはこの店のカーブを描くカウンターに座り、「とりあえずハイボール」はやめ、山本氏に何かさっぱりとしたウイスキーベースのものを頼んだ。彼が出してくれたキングス・バレー(スコッチ、コアントロー、ライムジュース、ブルーキュラソー)は、ウイスキーの甘いアクセントがライムで一層引き立ち、申し分ない。

舌をリフレッシュさせた後は、山本氏の作る有名なフルーツカクテルの番だ。彼のフルーツカクテルの本は1万冊も売れているのだ。味わってみないわけにはいかないだろう。「私がこの仕事を始めた頃は」と、彼は季節のフルーツを刻みながら話してくれた。「昔ながらのカクテルとウイスキーの水割りが主流でした。今では、古典的なカクテルよりフルーツカクテルの方がよく出ます」
私たちは、危険なスイカのカクテル(アルコールが入っているとは思えないから「危険」なのだ)を啜った。続いて桃の皮の滑らかな口当たりが残る、驚くべき白桃のマティーニだ。
そして彼のトレードマークとも言えるラスト・シーン。これは、山本氏がコンペティションで受賞したカクテルだ。甘みと渋みが交互に現れる、実にトリッキーなカクテルだ。フィニッシュには、ゆっくりとしたスパイスの刺激が長く残る。

フルーツカクテルを得意としながらも、山本氏はハーフロック革命によるウイスキーの復活をひしひしと感じている。その結果、多くの人がウイスキーを飲むようになり、ウイスキーファンが増えていると、山本氏は言う。そして彼のレパートリーも、増え続けている。彼は、品揃えをますますオフィシャルボトリングからインディペンデントのものに移行している。インディペンデントボトリングの方が、種類でも品質でも上回っているから、と彼は言う。

13席の店がほぼ満席になった頃、私たちは新しい飲み友達とのおしゃべりに興じていた。実に横浜らしい。そして、次の店を目指す時間となった。

 

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ドリンカーズガイド 横浜【その2・全2回】へつづく

 

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