ケンタッキーバーボンの人気蒸溜所では、感染症が拡大する苦難の時代をどう過ごしているのか。バッファロートレース蒸溜所の主要メンバーたちと語り合う3回シリーズ。

文:マギー・キンバール

 

新型コロナウイルスの大流行も、いずれ過去の出来事として振り返る日は来るだろう。この困難な時期を通して、ケンタッキーバーボン業界の動向には注目してきた。そして各社の努力を目にするたびに、どこか心が休まるような気分になっていた。バーボン業界が、この間のあらゆる逆境に対して力強く対峙してきたからだ。

業界の歴史に新しく刻まれた数々のストーリーは、苦難の時を生き延びるヒントを教えてくれるだけでなく、さまざまな学びから未来の繁栄を準備する取り組みにも役立ってくるだろう。

バッファロートレース蒸溜所は、これまでも火事や水害などの困難を乗り越えて、ケンタッキーバーボン業界で屈指の有力メーカーに成長してきた。世界的な感染拡大とコロナ不況から復活を期すため、今回の試練から何を学んでいけばいいのだろうか。

世界的に有名なバッファロートレースのビジターツアーで、名物ガイドとして活躍してきたフレディー・ジョンソンが語る。

「自分が生きているこの時代から抜け出して、先人たちの意見も聞いてみたい気持ちになりますね。祖父のことを思い出すと、当時のマスターディスティラーだったアルバート・ブラントン大佐(通称コロネル・ブラントン)が頭に浮かびます。父のことを思い出すと、同じ世代にはエルマー・リー、ロニー・エデンス、それに最近亡くなったレナード・リドルがいました。そして現在の自分自身は、ハーレン・ウィートリーと同じ時代を生きています。私はエルマー・リー、ゲイリー・ゲイハート、ハーレン・ウィートリーという3代のマスターディスティラーから影響を受け継いでいるとも言えるのです。それぞれ個性が豊かな3人のマスターディスティラーと一緒に、バッファロートレース蒸溜所で働いてこれたのは本当に幸運としかいいようがありません」

バッファロートレース蒸溜所は、ウイスキーマガジンが主催するアイコンズ・オブ・ウイスキーの「ビジターアトラクション・オブ・ザ・イヤー」に何度も選ばれている。フレディー・ジョンソン自身も、2018年の「ケンタッキーバーボン・ホール・オブ・フェイム」で殿堂入りを果たした。

ジョンソン家は、これまで3世代にわたってバッファーロートレース蒸溜所で働いてきた。フレディーの祖父に当たるジミー・ジョンソンは、当時マスターディスティラーだったアルバート・ブラントン大佐と一緒にウイスキーをつくっている。ここ何十年にもわたって、蒸溜所ではいろいろな出来事があった。その出来事のすべてを最前列で目撃してきたのが、ジョンソン家の男たちだったという訳である。
 

苦難が耐えなかったバッファロートレースの歴史

 
今回のコロナ禍は、蒸溜酒業界が絶え間なく直面してきた困難のひとつに過ぎない。バッファロートレースでシニアマーケティングディレクターを務めるクリス・コムストックが語る。

「1800年代後半、E・H・テイラーの時代に蒸溜所が火災で全焼しました。すべてを失ったテイラーは、すべてを一から建て直さなければならなかったのです。禁酒法の大波が押し寄せたときは、アルバート・ブラントン大佐が生き残りをかけて踏ん張りました。第1次世界大戦から第2次世界大戦にかけては、政府との取引に奔走した時代です。先月ウイスキーをつくったかと思えば、翌月は弾薬に使用するアルコールを製造していました。そしてもちろん忘れられないのが、蒸溜所設備の半分までが浸水した1937年の大洪水。私たちはこんな逆境をすべて耐えしのぎ、なんとか生き延びてきたのです」

高品質のバーボンを生産するバッファロートレースは、創業以来数々の苦境を乗り越えてきた。

40年代、50年代、60年代は蒸溜所にとっても素晴らしい時代が続いた。だが70年代に入ると、バーボンの人気が低迷しはじめる。クリス・コムストックの回想は続く。

「最盛期は従業員1,000人で年間20万バレルのウイスキーをつくっていましたが、ハーレン・ウィートリーが蒸溜所に入った1995年には、従業員50人で年間12,000バレルという生産体制にまで衰退していました。 当時は『エンシェントエイジ』が主体で『ブラントンズ』がほんの少しだけという商品構成。1970年代に人気を博した他の銘柄はもう生産していませんでした。1990年代にはウイスキー人気も大きく後退し、見る影もない有様だったのです。ボトリングも週に1回で十分という低迷の時代が続きました。アメリカンウイスキー業界が本格的に復興してきたのは、ここ25年の話です。特にここバッファロートレースでは、ウイスキー人気の再燃をダイナミックに感じることができました」

ウイスキー人気の復活を後押ししたのは、最高の品質を追求するあくなき挑戦だったとクリス・コムストックが振り返る。

「未来に向けて大きなビジョンを持っていた1人が、マーク・ブラウンでした、 彼はアメリカンウイスキーがスコッチシングルモルトウイスキーと同じくらい敬意を受けるべきだと考えていたのです。ジャックダニエルとジムビームのおかげで、アメリカンウイスキーの名前は世界中に広まりつつありました。しかしバーボンというカテゴリーに限っていえば、まだ世界に誇れる高品質なウイスキーだという主張は不十分です。そこでエルマー・リーが、マーク・ブラウンに自分のウイスキーを飲ませたら、 マークが『このウイスキーはダイヤモンドの原石だ。しっかりと磨き上げれば宝石のような価値になる』と理解したのです。そして1999年に現在の蒸溜所名である『バッファロートレース』に改称。間もなくジョン・ハンセルが、ディスティラリー・オブ・ザ・イヤーに選んでくれました」

それ以降、バッファロートレースは年を経るごとに成長を続け、生産するウイスキーの数々が市場で人気を博した。あまりの人気で、入手が困難になった銘柄もある。「W.L.ウェラー」「イーグル・レア」「ジョージ・T・スタッグ」 「パピー・ヴァン・ウィンクル」など、バッファロートレースが生産するほとんどすべてのウイスキー銘柄がファンにはおなじみとなった。
(つづく)