精緻な設計者であるジェームズ・クロウの理想が、不屈の実践者であるエドモンド・テイラーによって開花する。品質を重視した19世紀の改革が、バーボンというカテゴリーの土台を築いた。

文:クリス・ミドルトン

 

ジェームズ・クロウは、当時のアメリカで最高級のウイスキーを製造した。その方針は、1856年にクロウが亡くなった後も後継のスタッフに引き継がれる。その後継者のなかで最も重要な人物は、クロウ流のウイスキーづくりを誰よりも強く支持し、忠実な伝道者でもあったエドモンド・テイラーだ。クロウの死から10年後に、テイラーは主要な生産拠点で製造責任者の任を引き継いでいる。

ジェームズ・クロウは、現役時代を通じて少なくとも6軒の蒸溜所を設計した。その影響力は死後も衰えることなく、1880年代にはフランクフォート周辺のブルーグラス内陸部でクロウの設計による蒸溜所が24軒も操業していた。そのうち10軒の蒸溜所は、エドモンド・テイラーが購入したり、改築したり、さらにはクロウの設計図に基づいて新たに建設したものである。

やがて1894年にアメリカを大不況が襲い、ウイスキー業界の低迷を生き延びた蒸溜所は6軒だけだった。さらに後の禁酒法時代を生き延びた蒸溜所はなく、今では数棟の建物が残っているだけである。

ジェームズ・クロウの右腕として働き、最も影響力のあった弟子の蒸溜士といえばウィリアム・ミッチェルだ。クロウには1848年から師事し、1855年にクロウがグレン・クリーク沿いで数キロ離れたアンダーソン・ジョンソン蒸溜所へ移るとオスカー・ペッパー蒸溜所を引き継いだ。

エドモンド・テイラーと息子のジェイコブ・テイラーは、1879年にそのアンダーソン・ジョンソン蒸溜所を購入し、1887年にオールド・テイラー蒸溜所として再建した。クロウとミッチェルは、ジョン・ジョンソン、その従兄弟のヴァン・ジョンソン、その息子のウィリアム・ジョンソン、さらにはジョン・ホーキンス、エド・ケリー、マリオン・ウィリアムズ、サム・ブラウンなどを雇って技術を教え込んだ。

これらの人々やクロウの元で働いてきた蒸溜士たちを雇い入れ、自らの蒸溜所で働かせたのもエドモンド・テイラーだ。クロウの弟子たちは、クロウの設計で建設された他の蒸溜所でも働いていた。

テイラーの指導のもとで、オスカー・ペッパーの息子にあたるジェームズ・ペッパーは1872年に新しく登録されたオスカー・ペッパー蒸溜所を改築してオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所として再登録し、1881年にはレキシントン郊外に2軒目のオールド・オスカー・ペッパー蒸溜所を建設した。そこでウィリアム・ミッチェルを蒸溜責任者に任命し、クロウ方式による生産を継続したのである。
 

理想の設計を忠実に踏襲

 
エドモンド・テイラーは、フランクフォートで銀行家としてキャリアをスタートさせた。南北戦争中は、財務担当者およびトレーダーとして活躍している。そして1865年にゲインズ・ベリー&カンパニーに入社し、少数株主として蒸溜業界に参入した。

ゲインズ・ベリー&カンパニーの創設者たちは、当時26歳だったテイラーを1866年に研修旅行に送り出した。スコットランドとヨーロッパで、蒸溜酒の製造を学ぶためである。コーンを原料とするケンタッキー産のマッシュから最高水準のウイスキーを製造するため、ジェームズ・クロウが提唱する銅製設備と日々のメンテナンスケアの原則を再確認させたのだ。

高品質なウイスキーづくりを追求したジェームズ・クロウ設計の蒸溜所を建設し、法改正などのロビイングでバーボンの基準を底上げしたエドモンド・テイラー。百年以上前の功績は、現在の高品質バーボンの基盤となっている。メイン写真は、設備や外観にも様々な趣向を凝らした往時のオールド・テイラー蒸溜所。

エドモンド・テイラーは、フランクフォートのハーミテージ蒸溜所とグレンズ・クリークのオールド・クロウ蒸溜所の設計に携わった。この2軒の蒸溜所は、どちらも1870年代に北米で最大級の規模を誇った生産拠点である。これらの蒸溜所の生産量は、1日あたり1,400ブッシェル(約50,000リットル)にも上った。

テイラーがフランクフォートのオールド・スウィガート蒸溜所を1870年に購入したことで、ゲインズ・ベリーとのパートナーシップは解消された。この蒸溜所はクロウの設計に基づいて13年前に建てられたものだった。

テイラーはすぐにオールド・スウィガート蒸溜所の設備を拡張し、オールド・ファイヤー・カッパー蒸溜所(略称OFC蒸溜所)と改名した。テイラーは最近、オスカー・ペッパー蒸溜所のウィリアム・ミッチェルとジョン・ジョンソンをフランクフォートの新しいハーミテージ蒸溜所に再配置した。テイラーは、ケンタッキー川沿いの新しいOFC蒸溜所の再建と運営にクロウの弟子たちを参加させ、クロウ直伝の専門知識を確保したのである。

ウィリアム・ミッチェルがオスカー・ペッパー蒸溜所を去ると、サミュエル・ブラウンが蒸溜責任者となり、1878年にはラブロット&グラハム蒸溜所と改名された。ヴァン・ジョンソンは1872年から1902年までオールド・クロウ蒸溜所のヘッドディスティラーを務め、その後は息子のリー・W・ゲインズが後を継いでいる。彼はハーミテージ蒸溜所とオールド・クロウ蒸溜所を運営し、世界最大のウイスキーメーカーとなった。

エドモンド・テイラーが最後に手がけたもっとも重要な事業が、1887年創設のオールド・テイラー蒸溜所である。テイラーはジョン・ジョンソンとその成人した子供たちを株式持分で事業に招き入れた。オールド・テイラー蒸溜所は製造技術において世界最先端を誇り、「最高級のプレミアムなケンタッキーウイスキー」を生産していた。

エドモンド・テイラーの人生は、財務上の不運や景気の変動に翻弄される波乱に満ちたものだった。事業パートナーとの不和で訴訟沙汰も経験したが、最後にして最大の功績はグレンズクリークにオールド・テイラー蒸溜所を建設したことだろう。その一方で、1856年にクロウが不慮の死を遂げたアンダーソン・ジョンソン蒸溜所を解体している。

エドモンド・テイラーは、汚い木製の蒸溜器でつくられたバーボンを野蛮で粗雑なウイスキーだと思っていた。そのためあえてバーボンという呼称を避け、自分がつくるウイスキーを「銅製スチルのサワーマッシュウイスキー」と定義していた。

バーボンを製造する同業者のなかでも、テイラーはイリノイ州ピオリアとインディアナ州テレホートにあるスピリッツメーカーやブレンダーに強い敵意を抱いていた。だがタフト大統領が1909年にアメリカンウイスキーの提議を定めると、ようやくバーボンという名称を使うようになった。

ともあれエドモンド・テイラーは、世界最高品質のウイスキーを造ることに専心した。ジェームズ・クロウが提唱したプランに忠実でありながら、蒸溜所のスタッフと共にクロウ流の製造方法でつくるウイスキーの品質をさらに高めようと新しい技術や生物学的な知見を取り入れていった。製造効率とウイスキーの品質向上のために工程を改善し、設備を再設計しながら特許や技術革新も登録したのは大きな功績である。
(つづく)