ドグマからの脱却【前半/全2回】
文:マルコム・トリッグス
イアン・パーマーのサンプルルームに入ると、床にはシュレッダーでずたずたに切り裂いたドグマが散らかっている。もちろん本人の口から出たたとえ話だが、あながち嘘でもなさそうだ。イアンは、誰もが当然のように信じているありきたりな常識を嫌っている。ウイスキー業界で40年以上にわたって働いてきたイアンは、前例の踏襲を嫌というほどやらされてきたのだろう。だからこそ、最新のベンチャー事業であるファイフのインチデアニー蒸溜所では、すべて逆張りで常識を覆そうという気が満々なのだ。
だがそうはいっても、インチデアニーはあくまでビジネスだ。そのビジネスモデルは、スコッチウイスキー業界が何世紀もかけて醸成してきた共通認識の上に成り立っている。事業の主たる収入は、ブレンデッドウイスキーのメーカーにニューメイクスピリッツを供給することでもたらされる。このブレンデッド用スピリッツの利益があって、初めてインチデアニーという蒸溜所名を冠した商品用のストックが用意できるのだ。
そしてもちろん、ドグマに盲従しない健全な批判精神を自負するイアンであっても、スコッチウイスキーのつくり手である以上は、スピリッツ生産にまつわる原則的なルールに従わなければならない。
実際のところ、インチデアニーの事業計画は、スコッチウイスキーの条件を定めた規則を再読することから出発しているのだとイアンは言う。
「この事業を始めたとき、あらゆる方針は白紙の状態でした。そこで何か取っ掛かりになるような原理を探しいていたところ、法律のなかに素晴らしい一文を見つけたんです。『スコッチウイスキーは、生産や熟成に使用した原材料および手法に由来する色、アロマ、味わいを保持した製品でなければならない』という項目。これがインチデアニーの出発点になりました。そして原料、手法、熟成の個性を最大限に発揮できるような蒸溜所をつくるには、一体どうしたらよいのかと自問したのです。 そこから導かれた答えが、今日の常識的なアプローチとは異なったものだったという訳です」
直感に反することかもしれないが、インチデアニーの製品開発では、製品が規制に適合しているかどうかのチェックをプロセスの最終段階でおこなう。そのようなチェックは最初に済ませておけばよさそうなものだが、インチデアニーでは完全に逆なのだ。その理由についてイアンが語る。
「究極的に考えると、ある製品がスピリッツとして素晴らしい品質を備えているのなら、規制なんて二の次でいいという考え方です。まずは最高の製品を目指して開発を進め、もろもろの事務処理は後回しでOK。私たちは規制の改定を目指すパイオニアじゃないし、そういう活動に時間や労力をとられたくもない。そんなことをするくらいなら、もっと別のことをして、メーカーとして極限まで可能性を模索したほうがいいと思っています」
常識を超えたスコッチライウイスキー
蒸溜所の名を冠した初めての商品である「ライロー」(RyeLaw)は、まさにそんな事例だ。ライ麦モルトの比率が高い型破りなマッシュビルを採用し、スコットランドでつくって熟成までしたウイスキーだ。定義としては、シングルグレーンスコッチウイスキーにもあてはまり、同時にアメリカンスタイルのライウイスキーであるともいえる。
だがインチデアニーのビジョンは、そういう定義うんぬんを遥かに超えたところにある。ライウイスキーは、大西洋をはさんだアメリカとヨーロッパの双方ではっきりと人気が上昇している。だがインチデアニーのアクションは、このようなニーズの高まりにただ応えようとするものではない。農場からグラスまでウイスキーを届けるプロセスの総体において、インチデアニーはスコットランドでも真にユニークな方針をとっているのだ。
このような独自性は、ブレンデッドウイスキー用の原酒づくりでも、蒸溜所名を冠する独自のウイスキーづくりにおいても同様である。どちらも一貫した品質や特徴的なフレーバーの提供が目的だ。それはイアンによる忌憚のない言葉にも表れている。
「インチデアニーの伝統は、まだゼロの状態です。守るべきものはなく、これから発売するボトルの中身で評価されることになるでしょう」
スコッチウイスキーを定義する包括的な法律から、原料、手法、熟成という3つの原理について啓示を受けたインチデアニー蒸溜所。最初に着手したのは原料の分野だった。20世紀初頭以来、ライ麦はスコッチウイスキーにほとんど使用されてこなかった。現在もスコットランドでライ麦原料のウイスキーをつくろうとしているメーカーは数えるほどだ。
ウイスキーの原料としてのライ麦は、極めて扱いにくいことで知られている。糖化時のマッシュがねっとりとベタつきやすく、これが糖化槽の中で固まってへばりつく。この性質のために、品種によっては発酵槽のなかで発泡し、発酵が行き詰まる可能性をいつも抱えてしまう。このような性質のひとつひとつを見ても、ウイスキーの生産に使用する原料として、ライ麦はまったく向いていないということもできる。
しかし、だからといってライ麦を簡単に諦めるのは、宝物のような可能性をゴミと一緒に捨ててしまうくらいにもったいないことでもある。ライ麦を原料に使用するポイントは、その取り扱い方法にあると思えるからだ。そこで注目すべきは、インチデアニーの第2の原理である「手法」だ。
「最初からライウイスキーをつくろうと決めていた訳ではありません。そんな簡単にうまくいくはずはありませんから。まずは机上であらゆるリサーチをして、ラボでやるような規模の実験もたくさんこなしました。リサーチも実験も自分たちでやり、パートナー各社にも手伝ってもらいました。そうやって、ようやく試験用のスチルで蒸溜してみる準備が整ったのです」
(つづく)