進撃のLaddie ― ブルックラディ蒸溜所【前半/全2回】

November 7, 2014

2012年、フランス人オーナーを迎えたブルックラディ蒸溜所。買収の全容とその経過をレポートする。

読者の多くは、私が何か良くないことを書くと期待しているのではなかろうか。
そんな気持ちがあったことは確かだ。あらゆるところをチェックした。フランス人スパイが潜んでいるのではと、ウォッシュバックの下も見た。オフィスではフィガロ紙がないかと調べたし、キッチンでニンニクまで探したが、何も見つからなかった。

しかし、私が見たのは、一言でいえば「とても活気のある蒸溜所」だった。自分たちの仕事に誇りを持って働く人々、将来に向けての建設的な話。
今これを読んでいるあなたが、ブルックラディ蒸溜所レミー・コアントロー社(以下RC社)への売却を非難し続けたモルト愛好家のひとりであれば(私もその心痛はよく分かるが)、読むのを止めて別の記事に移る方がいいかもしれない。きっとお気に召さないだろう…実は、今の方がずっと良い状態にあるのだから。

ごく簡単な経緯説明をしよう。
ブルックラディ蒸溜所は1994年に閉鎖された後、アイラ島のロッホインダール湾岸に静かに佇んでいたが、2000年後半にロンドンのワイン業者マーク・レイニエと同僚のサイモン・コフリンを初めとする、個人投資家グループに買い上げられて再開した。
続く激動の10年間、ブルックラディ蒸溜所はスコッチウイスキー産業の主流とは異なるスタンスをとってきた…つまり、独立性を非常に重視し、テロワールに重点を置いて、多様性が全てと信じたのだ。だから、保守的なウイスキー業界の人々からは煙たがられてきたようだ。
しかし実際のところ、この蒸溜所が自ら「嫌われているのではなかろうか」と気にするほどだったとは私には思えない。業界の大部分は発展に邁進していたところだったので、「異端者」の存在も、さほど影響がないと考えていた。いわば「個性のひとつ」として認められる風潮も出来上がっていた、

しかし、RC社の考えは明らかに違った。その個性を非常に好ましく、魅力的に思っていたはずだ。今になってみると、同社は静かに、この数年間ブルックラディ蒸溜所の進捗を見守ってきたのだろう。「この蒸溜所を動かしている原動力が何なのか」を理解しようとしていたと思われる。
この買収を指してRC社が初めてスコッチウイスキーに関与したと言うコメンテーターもいるが、そうではない。同社は1981〜1990年の間グレンタレット蒸溜所を所有していたので、ウイスキービジネスに関する情報の蓄積はある。だが、小規模でウイスキーをつくっているということ以外、ふたつの蒸溜所にはほとんど何のつながりもない。それほど、ブルックラディは個性的だ。

ここで、ブルックラディ蒸溜所の売却が発表された2012年7月まで早送りする。一般的には…一言でいうなら「衝撃」。
だが、独立性を強調していた蒸溜所とはいえ、オーナーの立場になってみたまえ。10年以上前に大金を注ぎ込み、それからさらにまた注ぎ込む。「ウイスキーとはそういうものなのだから仕方ない」とは片付けられないほど、ウイスキービジネスはハードだ。
再開後のブルックラディ蒸溜所は成功し、疑う余地もないほど有名になった。しかし、まだその生産能力の半分くらいしか使っていなかった。そのうえ、忠実で献身的な従業員たちにとっては、彼らの技術、忍耐、激務を十分に評価されることが難しい状況だったはずだ。

従って、買収は完全に理に適っていた。いや、この成功を思えば、どこかの大企業が買収に動くか資金援助を申し出るかして、この蒸溜所の能力を最大限生かせるようにするだろうということは、十分に予想できたことだ。
ブルックラディ蒸溜所を前進させ、生産を増やして、増えつつある新規ウイスキーファンを満足させることができるのは、資金がたっぷりある新たなオーナーだけだろう。そのために独立性を諦めなければならないとしたら、それも仕方ない、とオーナーたちは結論した。
そしてご存じのとおり、同蒸溜所は大きなオファーを受けた。はっきり言えば、5,800万ポンド。だがそのうち1,000万ポンドは銀行などの負債の支払いに当てられた。状況はそれほど厳しかったのだ。オーナーたちの決断を誰が責められよう?
しかし、結果としてここまでの素晴らしい前進ができたことは、関係者のはるかに予想を超えていたのだ。しかも、その個性を失うことなく。

【後半に続く】

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