目新しく感じるイノベーションの議論も、ずっと以前から密かに検証済みだった。新商品の開発秘話から、ビル・ラムズデン博士のあくなき実験精神を学ぶ。

文:クリストファー・コーツ

 

どんなに小さな実験にも、時間とお金がかかるのは当然だ。このようなリソースは小規模メーカーが捻出できないものだったりする。だからといって、大手メーカーに目新しい商品の発売を求めるプレッシャーがない訳ではない。

特に実験期間が数十年に及んでいるようなアイデアは、期待を完全に諦めるのは難しい。最近発売されたばかりの「グレンモーレンジィ プライベートエディション」はそんな好例だ。「アルタ」と名付けられたこのボトルは、ビルが長年にわたって温めてきたアイデアを実現したもの。発酵に野生酵母株を使用している極めて珍しいウイスキーなのだ。

「もう正直に白状しちゃいましょう。このアルタは、理想的と思われる熟成状態よりもちょっと早めにボトリングしました。理由は2つあります。ひとつは、酵母による違いがうまく感知できなくなる事態を避けたかったからです」

野生酵母がスピリッツの特性に与える繊細なバランスについて、ビル・ラムズデンは説明を始める。ここでは樽由来のフレーバーとの兼ね合いによる影響も見逃せない。

「もうひとつの理由は、先を越されたくなかったから。いわゆるクラフトディスティラーと呼ばれる人たちを始め、どんなウイスキーのつくり手でも、同じことを思いつくだろうとわかっていました。『いま私たちは野生酵母に注目しています。すごいでしょ?』と喧伝する人が必ず現れるので、『ああ、それなら10年前にもうやりましたよ』と言いたかった。最初の実験の成果として、この商品には注目を浴びる権利があると考えたんですよ」

ビル・ラムズデンが、そんな守りの姿勢を取りたくなるのも理解はできる。酵母にまつわる議論は最近確かに盛り上がりを見せていた。キングスバーンズ、ノックニーアン、ローンウルフ、ラッセイ、インチデアニーといった新興蒸溜所が、それぞれ別のアプローチで実験的な酵母を使用し始めたお陰でもある。でも「アルタ」はその10年前から同様の試みを進めていたのだ。

そもそもビル・ラムズデンは酵母生理学者としてキャリアの初期を過ごしているのだから、今回の「アルタ」はもっと長い期間に及ぶ研究が実を結んだものであるといえるだろう。若き学生時代、ビルはエディンバラのヘリオットワット大学で博士号の取得を目指していた。研究対象は、発酵時における分裂酵母の細胞壁再生サイクルである。当時は醸造生物科学部と呼ばれ、現在は醸造蒸溜国際本部として世界的に知られる部門内での研究だった。

若い情熱的なブリュワーやディスティラーたち囲まれたビルが、ビールやウイスキーへの愛を育んだのはこの頃である。つまりビル・ラムズデン博士は酵母の研究をきっかけにしてウイスキー業界の門戸を叩いたのである。彼がもし当初の目標通り医学の世界で博士号を目指していたら、現在のウイスキー業界はまったく違うものになっていたかもしれない。

 

ウイスキーづくりの起源を探る仮説

 

さらに重要なのは、「アルタ」がスコットランドにおけるウイスキーづくりの起源を模索したビルの思考の果てに生み出された製品であるということだ。

「ウイスキーづくりが始まった当時は、それぞれの蒸溜所に特有の酵母が活躍していたのだろうと確信しています。証明するのは不可能かもしれないけど、僕はこんな夢のある仮説を信じています。蒸溜者は生の大麦の穂を取って、マッシュに浸すことで天然酵母を培養基に植え付けていなのではないか。そうするのがいちばん自然だし、17〜18世紀にはノリッジの国立酵母培養資料館もなかったので、 欲しい酵母をバッチで送ってもらう訳にもいきませんからね」

ウイスキーづくりの起源に立ち返り、野生酵母を使用した「グレンモーレンジィ アルタ」。ビル・ラムズデン博士による長年の実験から生まれた特別なウイスキーだ。

地元の穀物栽培に酵母の種があったのではないかとビルは考えている。そしてこの説を証明するサイドプロジェクトにも取り組んでいるところだ。

「酵母を入手できそうな場所が他に思い当たらないんです。株をどこかに保存していた可能性もありますが、その説はちょっと無理があると疑っています」

だが蒸溜所の環境にある微生物相との関連はないのだろうか。ランビックビールの醸造家にあらかじめお願いして、マッシュの入った桶をその環境に晒した可能性もあるのではないか。

「マッシュにお化けなんかいませんよ。野生酵母の採取先としていちばん考えられそうな場所は、蒸溜所の近所にある大麦畑だと思っています。だからそんな大麦畑で採取した野生酵母をラレマンドバイオテック社に送って調べてもらいました」

ラレマンドバイオテック社によって分離され、さらに培養された新しい酵母株は、「サッカロミケス・ディアマト」と名付けられた。「ディアマト」とはゲール語で「神様はやさしい」を意味する言葉だという。

「アルコールを初めて発見したのは古代エジプト人だと広く信じられていますが、偶然できたお酒を飲んだときもアルコール発酵の仕組みがわかっていませんでした。だから『こんなものをくださる神様はやさしい』と思ったんですよ」

 

微妙な味わいの差異がイノベーションの成果

 

驚いたことに、酵母を変えた「アルタ」の味わいは通常のグレンモーレンジィの風味構成とそんなに差がない。糖化や蒸溜の工程もほとんど同じにして、酵母由来の違いだけが立ち上がるように苦労した結果である。同じ理由で、ビルは使用するバーボン樽もファーストフィルとセカンドフィルの割合を「グレンモーレンジィ オリジナル」と同じ60:40にした。リフィルの古樽を使用する選択肢もあったのに、あえて使わなかったのである。

「ほんのかすかなニュアンスの違いをわかってもらうには、この方法しかなかったんですよ」とビルは言う。さらにはグレンモーレンジィではまだまだ突飛なアイデアから生まれた限定ボトルも準備中なのだという。

「今度はかなりファンキーなウイスキーを発売に向けて準備しています。まさにファンキーという形容がぴったりの商品です。『アルタ』はワイルドでしたが、次のボトルは『ファンキー』で行きます」

高収率のウイスキー酵母ではなく、個性の強そうな酵母株を使おうという業界の流行にはいったいどんな意味があるのだろう。長期的に見て、ビルもこの試みがウイスキー業界に意義深い影響を与えるとは思っていないようだ。

「さまざまな種類の酵母や酵母株を使って実験したとしても、結局は実際に蒸溜してモノになるような発酵パフォーマンスを得るのは容易いことじゃないんです。サッカロミケス属に限ったことではなく、さまざまな微生物との関連で成否が決まってきます。何十種類ものサッカロミケス属をラレマンドバイオテック社から購入することはできても、10~12年かけて熟成を完了した頃に十分な量の原酒を確保できるのか保証はありません」

とはいえ『アルタ』の発売に漕ぎ着けたことは、ビルにとって重要なマイルストーンだったようだ。業界内でイノベーションを語る人々が増えている一方で、実際に結果を示してくれる例は少ないからである。

「ジェームズ・ボンドの『007 サンダーボール作戦』をご存知ですか? トム・ジョーンズが歌う素晴らしい主題歌に、『口先だけの男たちをよそに、奴は行動を起こしている』という一節があります。僕が実践したいのはこの精神。みんながイノベーションについてただ語り合っているうちに、どんどん行動に移して結果を見せてあげたいんです」