キルベガン蒸溜所 ― 時の試練 【前半/全2回】

April 29, 2013

フレッド・ミニックが、時の流れを乗り切ったアイリッシュウイスキー銘柄について学ぶ。

昔々、ウイスキー界では、ロック(Locke)という名はジムビームやジョニーウォーカーと同じくらいの重みを持っていた。ジョン・ロックは1830年代後期にタラモアの蒸溜所でウイスキービジネスを学んだ。しかしこの事業は、タラモアの用地オーナーがロックのリース契約を打ち切るときに言ったところの「蒸溜ビジネスの大きな衰退」の中、不首尾に終わった。

アイルランドの合法的な蒸溜所の数は1838年の94ヵ所から1844年には61ヵ所に減少した。蒸溜所数の減少は大飢饉およびセオボルド・マシュー牧師の禁酒宣誓運動 に25万人以上が加わった時期と重なった。しかし、ロックはまだウイスキービジネスに期待していた。特にシャノン川の支流ブロスナ川の上流にある町、キルベガンで。

1800年代、農夫はこの小さな川を使ってトウモロコシやオート麦、大麦などをシャノン川に運び、一方、シャノン川とダブリン、タラモアをつなぐグランドカナル運河 を走る船は街の富裕層を運んでいた。ロックはキルベガン蒸溜所がきれいな水とビジネスチャンスにとても近いところにあると考えた。財務条件も申し分なかった。

ちょうどそれまでのリースが終了したところで、ロックは年200ポンドというわずかな料金で借りることができた。ロック一家は地域社会に根付いており、姉(妹)のキャサリンは労働者の子供たちを教えていたし、彼自身も大飢饉のときに貧しい人々を援助した。

ジョン・ロックは1846年に999年間のリースを確保して3年後に亡くなり、息子のジョンにキルベガン蒸溜所を残した。その後の50年間、妻のメアリー・アン・ロックを含めジョン・ロックが愛した近親者たちは、彼が思い描いた事業を築いた。毎年生産量が増え続けるにつれて、キルベガンはイングランドとダブリンで最も有名なアイリッシュウイスキーのひとつになった。

ロックのキルベガン蒸溜所の生産量は1860年代後期の年間6万ガロンから1870年代には78,000ガロンまで増加した。1886年にはウイスキー157,000ガロンを生産して、過去最高の急成長を遂げた。これはスコットランドのカーデュ蒸溜所の3倍近い生産能力であり、1887年でブッシュミルズ蒸溜所より年間56,000ガロン多かった。このペースで成長が続けば世界最大のウイスキー生産者になっていたところだ。しかし、激しい競争、英国との貿易戦争、米国の禁酒法、そしてアイルランドの政情不安といったすべてが、このブランドの緩慢な衰退につながった。

1927年、ジョン・ロックの孫で「スイート」と呼ばれたメアリー・ホープ・ジョンストンと「フロー」ことフローレンス・エックルズの指揮下にあったロックの蒸溜所は、10万ポンドの負債を抱えて破産した。その後の10年間、ジョセフ・クーニーという頭の切れる秘書の助力でブランドは死の淵から引き上げられたが、それも結局は高く売るための努力に過ぎなかったとは彼の与り知らぬことだった。スイートとフローは蒸溜所を売りに出し、アイルランドの歴史でも最悪の部類に入る政治スキャンダルの口火を切った。

《後半に続く》

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