ランシオ香を探し求めて【全2回・前編】

February 7, 2013


腐りかけの果実や、カビ臭い地下室の匂い。それでいて誰もがうっとりするような、幻のランシオ香とはいったい何モノ? この奇跡の香りが出現する条件を解明するため、東京のバーを探し歩く。

文:ニコラス・コルディコット

今からおよそ150年前のこと。ルイ・パスツールは研究所の中で、この世の真理を見いだしていた。

「死のプロセスさえ、生あるものがつかさどる」

稀代の細菌学者がそう思い至ったのは、煮沸した尿をフラスコに入れて酸素が及ぼす経時変化を観察していた時だったという。化学者の目から見て、「死」とは腐敗、発酵、燃焼の過程におけるほんの一部分を意味するものに過ぎなかったのである。

このパスツールの実験は、およそ食欲をそそる類の話ではない。しかしこの生と死の相互作用があるからこそ、私たちはワイン、ウイスキー、ブルーチーズ、サワークリームなど、様々な種類の美味しい発酵食品を楽しむことができる

パスツールの発見とほぼ同時期の1865年、彼の研究所から南西に約400キロ離れたアルバート・ロビン・コニャックハウスでは出来立てのブランデーが樽に流し込まれている最中だった。1世紀半の歳月をかけてじっくりと熟成されたその飲み物は、現在、恵比寿の「バー・オーディン」の棚に並んでいる。このバーでの体験を皮切りに、私は最高の香味といわれながらも、その本質を捉えることが極めて難しい「ランシオ香」の調査を開始することになった。

不快な描写、最高の香り

コニャックがトロピカルフルーツを思わせる微かな香りを生み出すまで、たっぷり30年はかかるかもしれない。それからキノコの風味が出現するまで、さらに10年から20年の酸化作用を要するかもしれない。そして、多少の運は必要だが、さらに十分な時間をかけると「アルバート・ロビン1865」のような飲み物ができあがるということになる。

パワフルな香りがパッと花開き、さまざまなイメージが浮かんでくる。1週間ずっと放置され、湿ったままの洗濯物を思い起こしてほしい。うま味成分を多く含む食品が、ちょうど発酵し始めた状態を想像してみてほしい。こんな風に書いても、食欲をそそられる人はいないだろう。しかし気分が悪くなるような説明なくして、ロックフォールチーズの美味しさを語ることはできない。それと同様に、ランシオ香の素晴らしさを表現するには、それ同等の不快な言葉を羅列しなければならないのだ。

ランシオ香は、ブドウからつくられる蒸溜酒と関連付けられることが多い。とりわけコニャックの世界で、ランシオ香に出くわすのはさほど難しくない。しかし私は、その香りをブランデー以外でも見つけてみたかった。ランシオ香という言葉は、時としてウイスキーのテイスティングノートを読んでいても現れる。ブランデーとウイスキー、ふたつの蒸溜酒に潜むランシオ香がまったく同じものを指すのかどうかを知りたいと思ったのだ。しかも、もしウイスキーにランシオ香が存在するのなら、他の蒸溜酒の中にも発見できるかもしれない。その正体を突き止めることが、私の目的のひとつになった。

ウイスキーのランシオ香はいずこ

2003年、カリフォルニア大学の2人の科学者の研究により、コニャックの魅力的なフレーバーの背後に隠されていた化学変化のあらましが解明された。鍵になるのは、蒸溜釜に含まれるワインの澱だというのが彼らの発見した事実である。(ただしすべてのコニャックメーカーがこの澱を添加するわけではないし、すべてのコニャックにランシオ香が現れるわけではない。)

この澱が、新しい蒸溜液が含む脂肪酸量の決定に関わっているというのだ。樽材に含まれる酵素や、おそらくコンデンサー由来と思われる銅イオン、それに酸素の助けを借りながら、脂肪酸がケトンへと非常にゆっくり変化する。ブルーチーズの独特なフレーバーも、このケトンに起因することを考えると、どうやらケトンの凝縮度がランシオ香を生む最大の要因のようである。つまりイーストがウォッシュに含まれてさえいれば、ウイスキーもランシオ香を生み出せるはずだ


そこで私は、ランシオ香のするウイスキーのおすすめをツイッターで問いかけてみることにした。すると、「それは響30年だ」という思いがけない返答がきた。ランシオ香はあくまで偶然の産物であることから、それを標準としたブレンドをつくる勇敢な蒸溜所はいないだろうと思っていたから驚いた。しかし、もしこの情報が本当なら、突出した価格帯で販売されている理由も納得がいく。確かに響はリッチで巧妙に仕組まれた味わいがするものの、それが古いコニャックに感じるかび臭さと同一のものとであるとはまだ断じがたかった。

 

後編へ続く

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