リタの数奇な生涯
日本のウイスキーの父、竹鶴政孝の偉業を陰で支えた伴侶。没後50年が過ぎたジェシー・ロバータ・カウンの数奇な運命を辿る。(文:デイヴ・ブルーム)
人間の運命は、周囲の人々とのつながりで大部分が定まる。しかし神話のような偉業によって、生々しい実人生の物語が歴史から消え去ることも多い。竹鶴政孝の人生やウイスキーの歴史を語るとき、彼の妻リタの果たした役割は小さくない。革命、追放、差別、戦争。その物語はまるで小説のようだ。
1918年12月、グラスゴーにやってきた若い日本人学生は、リタと運命的な出会いを果たす。キューピッドとなったリタの妹エラ・カウンは、グラスゴー大学医学部に通う18歳。住まいは9室のベッドルームと4室の応接間を擁する大邸宅だった。
エラに自宅へと招かれた政孝は、そこで23歳のリタと出会った。リタは身体が弱かったが聡明で、英文学とフランス語と音楽をグラスゴー中心部の専門学校で学んでいた。ダマスカスの戦闘で婚約者を失ったばかりで、すぐに医師の父も亡くすことになる。政孝はそんなリタにとって、希望の光だったに違いない。
第一次世界大戦が社会情勢を変え、女性の自立を促す機運が高まっていた。グラスゴーは急進的な運動の本拠地であり、1919年1月31日には大規模なゼネスト「黒い金曜日」が行われている。熱気を帯びた街では、恋の進展も速いものだ。政孝がウイスキーづくりをほぼ学び終える頃、2人は愛し合っていた。
後年、政孝は結婚してスコットランドに残ろうかとリタに問いかけたことを回想している。それに対するリタの答えは「あなたの夢は日本でウイスキーを作ることなのだから、私たちは日本に行かなければならない」というものだったという。もしリタが政孝の提案を受け入れてスコットランドに残っていたら、ウイスキーの世界はどうなっていたのだろう。
出会いから1年が経った1920年1月8日、2人はグレートハミルトン通りで挙式。政孝はウイスキーづくりの秘密を知る唯一の日本人として、スコットランド人の妻を連れて帰った。しかし政孝の留学費用を工面した酒造会社はウイスキーづくりを断念。そこに寿屋の鳥井信治郎が手を差し伸べる。
大事業と戦争の影で
残された写真に手がかりを探してみよう。1920年発行のパスポートを見ると、当時のリタはショートを少し乱したトレンディな髪型で、カメラから目線を外して哀愁を漂わせている。しかしその表情からは、才気煥発な知性や健全な自我、機転の利く性格なども読み取れる。
数ヶ月後に撮られた写真で、リタはまた違った一面を見せている。政孝の歓迎会に出席したときのもので、黒い無地のベルベットドレスを着て写真の真ん中に収まっている。他の男たちに比べ、粋なボウタイに口ひげの政孝はひときわモダンに見える。
リタは異邦人だった。台所では日本料理を作っていたが、若い頃を思い出してピアノの練習を再開したり、児童や主婦に英語を教えたりしていた。そして1934年、政孝は寿屋から冷遇されるようになると、退職して夫婦で新天地へと赴く。北海道の大地で、夢を実現するためである。
ここにもう1枚の写真がある。笑うリタ。背後には雪が積もり、広い空があり、スキーに興じる者がいる。幸せそうなリタの白い肌には鮮やかな口紅が映え、髪にはお洒落なパーマがかかっている。人生は順調のようだ。このスナップ写真には、未来への希望と自由が満ちあふれている。
事業はうまくいった。しかし彼らは戦争を生き延びなければならなかった。リタは抑留を免れたものの、連合国の潜水艦に無線で情報を送っていると疑われ、警察に尾行された。石を投げつける者もいた。1940年、孤独なリタにスコットランドの家族は帰国を勧めたが、そもそもそんなことが可能だったのだろうか。
リタは戦争を生き延び、1945年に威を養子に迎える。1950年代には孫もできたが、戦時中に経験した貧しさが尾を引き、北国の長い冬は身体にこたえた。夫は忙しく、共に過ごす時間も少なかった。リタはニッカ創設者の妻であり、余市に幼稚園を開いた老婦人となっていた。
1957年に彼女はこう記している。「年老いていくのは寂しいこと。でも私は、人生を自分の意思で切り開いたことを憶えておこうと思う」。彼女は確かに自分の意思で人生を選んだ。自分の運命を切り開くことで、他者の人生までも輝かしいものに変えることができたのだ。