世界のウイスキー、100人のレジェンド その2【全4回】

May 28, 2012

英国ウイスキーマガジン通巻100号を記念し、ウイスキーの輝かしい歴史を作った100名をリストアップ。全4回の掲載となる第二弾は、ウイスキーの聖地、スコットランドの著名人を紹介する。

文:ガヴィン・スミス、イアン・バクストン(人名は項目別アルファベット順)

 

スコットランド  

ロバート・アーマー Robert Armour
キャンベルタウンの配管工で、1811年から1817年にかけて数々のスチルを制作した腕利きのスチル職人。アーマーが造るスチルは「密造スチル」などと呼ばれ、キンタイア地方で未許可のウイスキーをつくるのに用いられていた。アーマーのスチルは、スプリングバンクとボウモアにも納入されている。

ジョージ・バランタイン George Ballantine
19世紀スコットランドにおける最も優れたブレンダーのひとり。ジョージ・バランタインは1860年代にエディンバラとグラスゴーの店でブレンディングを始め、息子(名前は父と同じジョージ)が輸出業に進出することで国際的な成功を収めるに至った。現在ペルノ・リカールの傘下にあるバランタインは、特に極東地域で人気が高い。

ジミー・バークレイ Jimmy Barclay
1902年にベンリネス蒸溜所の事務員として働き始めたジミー・バークレイ。給与は週給10ペンスだったが、この世を去る1963年までに莫大な財産を築いていた。その多くはサミュエル・ブロンフマンへの貢献と、シーバスリーガルの創設に関わった功績によるものである。

アーサー・ベル Arthur Bell
家名を冠した商店「ベルズ」を1825年にパースで開店し、紅茶のブレンディングから得た技能をブレンデッドウイスキーの開発に活かした。アーサー・ベルの事業は息子たちによって拡張された – とりわけよく知られるのがA.K.ベルの功績である。 ベルズは長年に渡って英国で最も人気の高いブレンデッドウイスキーのひとつであり、現在はディアジオが保有している。

ジェイムズ・ブキャナン James Buchanan
誉れ高い「ウイスキー男爵」のひとりであるジェイムズ・ブキャナンは、1884年にロンドンでウイスキーの卸売業を始め、1898年「ブキャナンズ・ブレンド」が王室御用達の指定を受けた。1922年には、爵位を得るため5万ポンドを支払ったと言われている。彼の「ブラック&ホワイト」は今も南米で根強い人気を誇るブレンデッドウイスキーであり、現在はディアジオが保有。

A・J・キャメロン A. J. Cameron
ジョン・デュワーズ&サンズの初代マスターブレンダー。デュワーズのブレンドを構成するモルトウイスキーとグレーンウイスキーを地理上のグループに分け、最終的なブレンドの前にヴァッティングする「マリッジ」の開発に先鞭をつけた。キャメロンはこのマリッジをさらに追求し、ブレンドしたウイスキーを再び樽に戻して熟成するという手法も生み出している。

ダニエル・キャンベル Daniel Campbell of Islay
1726年にグラスゴーの邸宅を焼失したダニエル・キャンベルは、アイラ島を購入し、ジュラ島の土地も多く手に入れた。ボウモアをアイラ島の中心地とするよう働きかけ、アイラ島で商業的なウイスキー文化を根付かせた功労者である。

ジョン・シーバス&ジェイムズ・シーバス John and James Chivas
食料雑貨商としてアバディーンに設立されたシーバス・ブラザーズは、1843年に食料品部門で王室御用達の認定を受け、1850年代からウイスキーのブレンディングを始めた。最初のシーバスリーガルは、1909年に米国で25年熟成の高級ブレンデッドウイスキーとして発売され、現在もペルノ・リカールが保有するベストセラー銘柄のひとつである。

ジョン・コー修道士 Friar John Cor
1494年、ファイフのニューバラ郊外にある修道院に暮らしていたジョン・コー修道士は、「アクアヴィテ(命の水)」を作る材料としてジェイムズ4世から8ボルの大麦麦芽(1500本を製造できる量に相当といわれている)を与えられた。この有名な逸話から、彼がスコットランド史上に初めて登場したディスティラーであると伝えられている。

ヘレン・カミング&エリザベス・カミング Helen and Elizabeth Cumming  
ヘレン・カミングがウイスキー「カーデュ」を蒸溜し始めたのは1811年と言われる。その後も長く蒸溜所の運営を続け、息子の妻 エリザベス・カミングに譲り渡したのは1872年のことだった。エリザベスの指示により、蒸溜所は1885年に改築。女性ディスティラーの典型として、2人のカミングはウイスキー史でもっと注目されるべき存在である。

ジョン・デュワー&トミー・デュワー John and Tommy Dewar
進取の気風と起業家精神に溢れたジョンとトミーのデュワー兄弟は、19世紀後半にブレンデッドウイスキー「デュワーズ」を積極的に販売し、家業を世界規模の成功へと導いた。1896年にアバフェルディ蒸溜所を設立し、近代的なマーケティング手法を導入。デュワーズは1925年にディスティラーズ・カンパニー・リミテッド(DCL)と合併し、現在はバカルディの傘下である。

チャールズ・クリー・ドイグ Charles Cree Doig
エルギンの建築家チャールズ・クリー・ドイグは、モルティングをおこなう製麦棟のために「ドイグ式乾燥塔」を発明した。屋根と一体型の換気システムは、現在も世界中でよく見られる。1880年代のウイスキーブームで、スコットランドにある56もの蒸溜所がこの設計を導入した。バルブレア、ダフタウン、プルトニー、アバフェルディ、アベラワーなどがその一例である。第一号の乾燥塔はダルユーイン蒸溜所に造られたが、1917年に焼失した。

ウィリアム・デルム・エヴァンス William Delme-Evans
革新的なウェールズ人の蒸溜所技師ウィリアム・デルム・エヴァンスは、タリバーディン蒸溜所(1948年)、アイルオブジュラ蒸溜所(1960年)、グレンアラヒ蒸溜所(1968年)などを設計した。マクダフ蒸溜所にも関わったが、経営者と意見が合わずにプロジェクトを降りたと言われている。近代的な蒸溜所建設に影響を及ぼした1960年代のスタイルは、今でもグレングラッサ蒸溜所などで見ることができる。

ダンカン・フォーブズ Duncan Forbes of Culloden
ヤコブ派の蜂起で焼失した蒸溜所の賠償として、インヴァネス近郊のフェリントッシュで酒税免除のスピリッツ生産を許可されたのは1690年のこと。1784年に長年の免税特権が取り消されたとき、蒸溜所の閉鎖を嘆いた国民的詩人ロバート・バーンズがこう詠んだ。「ああフェリントッシュ!/失われるとはなんと悲しき!/スコットランドの嘆きが海岸を渡らん!」

マルコム・ガレスピー Malcolm Gillespie
その名を知られた非道な収税吏マルコム・ガレスピーは、全身に42の傷を負いながらも、アバディーンシャーで6,535ガロンのウイスキー、407基のスチル、165頭の馬、85台の荷馬車、62,400ガロンの発酵モロミをウイスキー密造業者たちから押収した。その後、偽造手形を振り出したことで1827年に絞首刑になっている。

マシュー・グローグ Matthew Gloag
パースで食料品およびワインの卸売りを営んでいたマシュー・グローグから、息子のウィリアムが事業を受け継いでブレンデッドウイスキーの製造を始めたのは1860年のこと。その息子で、祖父と同じ名を持つマシュー・グローグが1897年に発売したブレンデッドウイスキー「グラウス・ブランド」は、後に「フェイマス・グラウス」と改称され、英国で売上第1位を誇るブレンデッドウイスキーになった。フェイマス・グラウスは、1970年よりハイランド・ディスティラーズの傘下にある。

ジョン・グラント John Grant
ロバート・ヘイがスペイサイドのグレンファークラス蒸溜所の運営を認可されたのは1836年のこと。そして1865年、蒸溜所の借地権を取得したのがジョン・グラントだった。1930年に所有地として買い取ったグラント家は、その後も一貫してグレンファークラス蒸溜所を運営してきた。直系の子孫にあたるジョン・L・S・グラントが、今日の会長である。

ウィリアム・グラント William Grant
ウィリアム・グラントは、スペイサイドのダフタウンにグレンフィディック蒸溜所をゼロから造り上げ、1887年のクリスマスに最初のニューメイクを蒸溜した。次いで1893年、グラント家は近隣にバルヴェニー蒸溜所を建設。今日もウィリアム・グラント&サンズは家族経営を維持しながら、モルトウイスキーの蒸溜量においてスコットランド第3位の規模を誇っている。

ジェイムズ・グレイ博士 Dr. James Gray
グラスゴーの医師で分析化学者。1872年9月より、グラスゴーのパブや潜りの酒場で供されるウイスキーに不純物が添加されている事実を英国の新聞で暴き、空前の大論争を巻き起こした。彼の主張によると、広範囲で確認された粗悪なウイスキーにはメチルアルコールが混入されていた。

ジョン・ヘイグ John Haig
ジョン・ヘイグは、グレーンウイスキーを製造した最初の蒸溜所であるといわれるキャメロンブリッジ蒸溜所を、ファイフ地方ウィンディゲイツで1824年に創設した。ディスティラーズ・カンパニー・リミテッド(DCL)創立メンバーのひとりとしても知られる。世界初の連続蒸溜機を製造したロバート・スタインは従兄弟である。

キャプテン・ウィリアム・フレーザー Captain William Fraser
1812年にブラックラ蒸溜所を創立したキャプテン・ウィリアム・フレーザーを、横柄で短気な人物だと評する人は多かった。事実、彼は法で定められた物品税をあからさまに無視してしばしば罰金を科せられたが、一方では2つの王室御用達の勅許をうけるという栄誉に授かった最初のディスティラーでもあった。ブラックラ蒸溜所は、現在デュワーズが保有している。

チャールズ・ジュリアン Charles Julian
ウイスキーと紅茶のブレンダーで、「J&Bレア」を製品化したとされる人物。1949年から1960年にはシーバス・ブラザーズのマスターブレンダーとして、シーバスリーガルとオリジナルのロイヤルサルートを手がけた。歯に衣着せぬ人物で、「ブレンディングは芸術でも何でもない。でもこの話はサム氏(サミュエル・ブロンフマンン)には内緒だよ」と発言した。

W・P・ローリー W. P. Lowrie
グラスゴーを拠点とするウイスキー商人で、1897年に著名なブレンダーのジェイムズ・ブキャナンと手を組んでグレントーチャーズ蒸溜所を設立し、後にコンバルモア蒸溜所を所有した。ブレンダーの草分けを自称していたが、一般的に最初のブレンダーはアンドリュー・アッシャーであるとされている。蒸溜所は1907年にブキャナンが買い取った。

ピーター・マッキー Peter Mackie
天才、誇大妄想狂、奇人が3分の1ずつ同居するといわれたピーター・マッキーは、エキセントリックな人物だった。1878年に伯父が経営していたラガヴーリンに入社し、1890年までにホワイトホースのブレンディングで大成功。その後、クレイゲラヒ蒸溜所とグレンエルギン蒸溜所を買収している。

ミッチェル家 Mitchell family
17世紀半ばから、キャンベルタウンのウイスキーづくりをリードしてきた一族のひとつがミッチェル家である。密造時代を経てリークラハン蒸溜所(1825年)、スプリングバンク蒸溜所(1828年)を設立し、ドラモア蒸溜所(1834年)、グレンガイル蒸溜所(1872年)の設立にも関わった。現在、スプリングバンクはアーチボルド・ミッチェルから数えて6代目にあたるヘドリー・ライトが所有している。

ウォルター・パティソン Walter Pattison
ウォルター・パティソンとロバート・パティソンの兄弟は、スコッチウイスキー史上で最大のスキャンダルを巻き起こした。ファミリービジネスで新株発行後、不正取引による利益で無謀な拡大戦略に着手。1898年12月に破産するとウイスキーバブルは突然の終焉を迎え、兄弟ともに投獄されている。

ウィリアム・ロバートソン&ジョン・バクスター William Robertson and John Baxter
二人は、会社を設立した1861年からスコッチウイスキー業界に多大な影響力を誇った。(バクスターはもともとロバートソンの助手)1887年、彼らはハイランド・ディスティラーズの設立に尽力し、1936年までに「カティーサーク」の主要なブレンダーとなる。現在、カティーサークはエドリントン・グループ傘下。

ウィリアム・H・ロス William H. Ross
1878年にディスティラーズ・カンパニー・リミテッド(DCL)に入社し、事務長から最高経営責任者、会長を歴任した。1935年に引退するまで、同社(現ディアジオ)の拡大戦略を統括し、スコッチウイスキー製造の合理化を推進した。あまたの蒸溜所を閉鎖に追い込んだ合理主義については賛否両論があるが、彼が産業の近代化を確立させた功労者であることには違いない。

ジョン・スミス John Smith
1823年、スコットランドでウイスキー製造が合法化された際に、最初に免許申請をしたことで知られるディスティラーがジョン・スミスである。リベット峡谷で政府公認第一号となったが、依然として密造を続ける近隣の同業者から脅され、身を守るために拳銃を持ち歩いていたという。「ザ・グレンリベット」を設立し、もとの無認可製造から一転、有数の知名度を誇る蒸溜所へと成長させた。現在、グレンリベットはペルノ・リカールが所有。

ロバート・スタイン Robert Stein
クラックマナンシャイアのディスティラーであったロバート・スタインは、その後のウイスキーの世界を大きく変える革命的な方式の連続蒸溜機を1826年に発明した。 イーニアス・コフィーがさらに開発を進めて装置を改良したことから、グレーンスピリッツの大容量蒸溜が可能となり、ブレンデッドウイスキーの成長を引き起こすことになる。

ウィリアム・ティーチャー William Teacher
グラスゴーのブレンダーだったウィリアム・ティーチャーは、経営するドラム・ショップ(バー)が好評を博し、一時はグラスゴー随一の販売店という栄誉にあずかった。「ティーチャーズハイランドクリーム」は1884年に商標登録され、1898年にはティーチャーズのブレンドに使用するモルトウイスキーを供給するためにアードモア蒸溜所が設立された。

ジョージ・アーカート George Urquhart
父ジョン・アーカートは1895年にエルギンに本拠地を持つゴードン&マクファイルに見習いとして入社した。後に共同経営者、最終的には会社のオーナーとなったことから、アーカート家がその経営を担うことになった。息子のジョージ・アーカートは一連の「コニサーズチョイス」を1960年代にボトリングし、それ以降のシングルモルトの売上増加に大きな影響を与えている。

アンドリュー・アッシャー・ジュニア Andrew Usher Jnr
スコッチウイスキーにおけるブレンディングの祖として広く知られている。同じ名前の父アンドリューは、スピリッツの卸売りをエディンバラで開業していた。息子であるアンドリュー・ジュニアは、19世紀半ばにモルトウイスキーとグレーンスピリッツをブレンドして市場で販売した先達たちのひとりである。

ジョン・ウォーカー John Walker
ブレンデッドスコッチウイスキーの世界で、おそらく最もよく知られている名前がジョニーことジョン・ウォーカーであろう。1820年にキルマーノックで事業を興したが、ウイスキービジネスを成長させたのは息子のアレクサンダー・ウォーカーだった。「ブラックラベル」を世に送りだし、あの特徴的な四角いボトルを導入したのだ。1925年にディスティラーズ・カンパニー・リミテッド(DCL)に加入。以後の発展はご存じの通りである。

ベッシー・ウィリアムソン Bessie Williamson
偉大な女性ディスティラーとして知られるベッシー・ウィリアムソンは、ラフロイグ社の秘書として3ヵ月間働くためにアイラ島に降り立ち、結局はその後40年以上にわたって同地で暮らすことになった。第2次世界大戦後に蒸溜所長に任命され、1954年にはオーナーからラフロイグ社を遺贈された。数々の慈善事業に尽力し、聖ヨハネ勲章を受けている。

第三弾はスペインとアメリカの偉人を紹介します。

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