世界のウイスキー、100人のレジェンド その3【全4回】

May 30, 2012

英国ウイスキーマガジン通巻100号を記念し、ウイスキーの輝かしい歴史を作った100名をリストアップ。全4回の掲載となる第三弾は、スペインとアメリカの著名人を紹介する。

文:ガヴィン・スミス、イアン・バクストン(人名は項目別アルファベット順)

スペイン

ニコメデス・ガルシア・ゴメス Nicomedes Garcia Gomez
アニセットを蒸溜していたスペインの起業家ニコメデス・ガルシア・ゴメスは、1958年に「デスティレリアス・イ・クリアンサ・デル・ウイスキー(ウイスキー蒸溜&熟成)」を創立して同国におけるウイスキー製造業の先駆者となった。マドリッドから北へ約90km、古都セゴビア近郊にあるパラスエロス・デ・エレスナの蒸溜所でつくられたウイスキーが発売されたのは1963年のことである。

アメリカ合衆国

ジェイムズ・アンダーソン James Anderson
英国生まれのジェイムズ・アンダーソンは、バージニア州マウントバーノンでジョージ・ワシントンに農場長として雇われた。大農場の製粉業の発展にと、ライ麦やトウモロコシからウイスキーをつくる蒸溜所の建設を進言。1797年創設の蒸溜所は、当時のアメリカでは最大級のひとつで、2000年に同じ場所で再建されている。

アイザック・バーンハイム Isaac Bernheim
ドイツ生まれで、ペンシルベニアの行商人でもあったアイザック・ウルフ・バーンハイムは、弟のバーナードと共にウイスキー販売を始め、ついには2人で自分たちのウイスキーを蒸溜するまでになった。彼らに成功をもたらしたブランドが、1879年に商標登録された「I.W.ハーパー」である。現在ルイスビルにある近代的なバーンハイム蒸溜所では「ヘブンヒル」が生産されている。

コロネル・アルバート・ブラントン Colonel Albert Blanton
1897年、16歳のコロネル・アルバート・ブラントンは、父のベンジャミン・ブラントンが創設した現在のバッファロートレース蒸溜所で、事務の小間使いとして働き始めた。その15年後には蒸溜所の経営者となり、1952年に引退するまでフランクフォート工場に勤務。晩年は蒸溜所の主要株主でもあった。

ジェイコブ・ボーム Jacob Boehm
18世紀後半にドイツからケンタッキーへと渡ったボーム家は、のちに名字の綴りを変えてビームと改姓する。ジェイコブ(ドイツ語ではヤコブ)・ボームは、1788年頃にネルソン郡でコーンウイスキーの蒸溜を開始。ジェイコブの孫に当たるのがジム・ビームで、一族は今でも蒸溜所経営に関わっている。

A・スミス・ボウマン A. Smith Bowman
アブラム・スミス・ボウマンと、その2人の息子スミスとデロングは、禁酒法が廃止された翌年の1934年、一家が所有するバージニア州フェアファックス郡のサンセットヒルズ農場でウイスキー製造を始めた。1988年以降、蒸溜はスポットシルヴィア郡フレデリックスバーグ近郊で引き続きおこなわれている。

ジョージ・ガーヴィン・ブラウン George Garvin Brown
後の「ブラウン・フォーマン」を1870年に創設した人物である。若い頃はケンタッキー州ルイスビルの薬品販売員だったが、やがてウイスキー「オールド・フォレスター」をラベル付きのガラス瓶で売るという斬新なアイデアを実行。品質を保証するため、すべてのラベルに彼の手書きの保証書とサインが記された。

J・T・S・ブラウン J.T.S. Brown
ジョン・トンプソン・ストリート・ブラウンは、ジョージ・ガーヴィン・ブラウンの異母兄弟。当初ジョージの共同経営者だったものの、1875年以降に自身の事業を立ち上げ、アンダーソン郡でオールドプレンティス蒸溜所を創立した。死後、1950年代にはローレンスバーグにJTSブラウン蒸溜所が設立されている。

アル・カポネ Al Capone
米国史上、もっとも悪名高いギャングスター。通称「アル」ことアルフォンス・カポネは、主にシカゴを本拠とし、1920年から1933年に施行された禁酒法の時代に、ギャング仲間とブートレグ・リカー(密造酒)を売りさばいて巨万の富を得た。米国社会にマフィアの力を波及させた責任の一端は、この禁酒法にあるといえる。

エライジャ・クレイグ Elijah Craig
エライジャ・クレイグ牧師は、18世紀のバプティスト派の聖職者であり、一説にはバーボンウイスキーの発明者ともされるディスティラーだ。1780年代の終わり、バージニア州フェイエット郡に蒸溜所を創設し、内側を焼き焦がしたオーク樽によってバーボン特有の色と特徴を与えるという革新的な手法の確立に関与したと伝えられている。

ジェイムズ・クロウ Dr. James Crow
スコットランド生まれの医師ジェイムズ・クロウは、19世紀半ば、米国のウイスキー産業に大きな技術的進歩をもたらした。その最たるものは、ウイスキー製造のサワーマッシュ工程を確立して、スピリッツの均質化を容易にしたことである。1856年に亡くなったが、それから十数年を経て、フランクフォート近郊にある有名なオールドクロウ蒸溜所が創設された。

ジャック・ダニエル Jack Daniel
アメリカンウイスキーのなかでも屈指の有名ブランドを創設したジャズパー・ニュートン・“ジャック”・ダニエルは、テネシー州リンカーン郡で1846年に生まれた。14歳で最初のスチルを購入し、後にリンチバーグ近郊にジャックダニエル・オールドタイム蒸溜所を創設。優れたウイスキーづくりで財をなし、1911年にこの世を去っている。

J・W・ダント J. W. Dant
ジョセフ・ワシントン・ダントは、長きに渡って語り継がれてきた伝説のディスティラーである。1830年頃、木の幹の一部に銅製のパイプ通してくり抜き、そのくり抜いたところを発酵したマッシュで満たした。そして、蒸気がパイプから送り込まれて蒸留がはじまるという「サワーマッシュ方式」ケンタッキーで生み出した。

ジョージ・A・ディッケル George A. Dickel
1818年にドイツに生まれたジョージ・A・ディッケルは、若い頃にテネシー州ナッシュビルにわたり、ウイスキーの卸売業で成功を収めた。1888年にタラホーマ近郊のカスケード蒸溜所との提携を始めたが、この年に愛馬から落ちて負傷。これが6年後にこの世を去る遠因となった。

アルフレッド・イートン Alfred Eaton
イートンはビリー・ピアソンという名の人物から1825年頃にウイスキーのレシピを買い取り、トローリー氏という人物と手を組んでウイスキーづくりに着手した。彼らはサトウカエデの木炭濾過を用いた「リンカーン郡工程」を独自に開発し、後にジャック・ダニエルという名の若者にその工程を教えたのだという(売ったという説も)。これがテネシーウイスキー伝統の風味として今でも受け継がれている。

ジョン・E・フィッツジェラルド John E. Fitzgerald
1870年にケンタッキー州フランクフォートで蒸溜所を開設し、1900年までにヨーロッパへの輸出を始めていたフィッツジェラルドは、当時もてはやされていた連続式蒸溜をあえて採用しなかった。当時の「オールドフィッツジェラルド」は、米国製ポットスチルで造られた最後のウイスキーのひとつで、1913年までその伝統的な手法が用いられた。

オスカー・ゲッツ Oscar Getz
1944年、ゲッツ家はケンタッキー州バーズタウンで現在「バートン1792蒸溜所」として知られる蒸溜所を購入した。オスカー・ゲッツはバーボンづくりにまつわる様々なコレクションで知られている。収集品はもともと蒸溜所で展示されていたが、現在はオスカー・ゲッツ・ウイスキー博物館に収蔵されている。同館はバーズタウンのスポルディングホール随一の観光名所である。

ニアレスト・グリーン Nearest Green
アメリカンウイスキーの歴史上、忘れられがちな重要人物のひとりがニアレスト・グリーンである。グリーンは、テネシー州リンカーン郡ラウスクリークの農夫でルター派の牧師だったダン・コールの元で奴隷として労働していた。スチルひとつでウイスキーをつくっていたコールの指示により、彼は若いジャック・ダニエルに蒸溜技術の手ほどきをしたのである。

ポール・ジョーンズ・ジュニア Paul Jones Jnr
「フォアローゼズ」を最初に販売したのはディスティラーのルーファス・ローズだといわれているが、バーボンを代表するブランドに育てた立役者はポール・ジョーンズ・ジュニアである。1884年に食料品販売の拠点をケンタッキー州ルイスビルに移し、メイン通りに歴史的な「ウイスキーロウ」を開店。その4年後に「フォアローゼズ」を商標化し、1860年代からの製造販売であることを主張した。

ビル・マッコイ Bill McCoy
ウィリアム・フレデリック・“ビル”・マッコイ船長は、船大工にして船乗りだった。禁酒法時代、マッコイ船長はバハマから米国の東海岸まで酒を密輸していたが、粗悪品ではない、本物のウイスキーだけを売る誠実な取引で知られた。その伝説から、「リアル・マッコイ」は「本物」を意味する英語の慣用句になったのである。

ヘンリー・マッケンナ Henry Mckenna
1837年にアイルランドからアメリカへ渡り、ケンタッキー州フェアフィールドに落ち着いた。1855年、母国の家族から受け継いだ蒸溜の知識をもとに蒸溜所を創設。コーンをはじめとする地元産の穀物に合わせた蒸溜技術で「Hマッケナ・オールドライン・ハンドメイド・サワーマッシュ・ウイスキー」を製造した。他に先駆けて樽熟成をおこなったパイオニアのひとりでもある。

トム・ムーア Tom Moore
トム・ムーア蒸溜所は1889年に設立され、現在はバートン1792蒸溜所があるバーズタウンの一角にあった。それより12年前の1877年からは、J・G・マッティングリーと「ベルオブネルソンバーボン」製造のために手を組んだ。このボトルは、酒を飲む裸の女性たちをモチーフにした目立つラベルで注目を集めた。

ブッカー・ノウ Booker Noe
ブッカー・ノウはジェイムズ・“ジム”・ビームの孫で、2004年に没するまで40年以上に渡ってジム・ビーム蒸溜所で名誉ディスティラーとして働いた。ノウは「スモールバッチのバーボン」というコンセプトを確立することに尽力し、何も手を加えない、樽出しそのままのウイスキー「ブッカーズ」を1988年に発売した。

T・B・リピー T.B. Ripy
アイルランド移民の息子として生まれたトーマス・B・リピーは、19世紀にバーボンをつくり始めた有力な起業家。「TB」と呼ばれて広くその名を知られ、蒸溜所をいくつも保有し、生産するウイスキーの品質も良く好評だった。ローレンスバーグ近郊にあった彼の工場のひとつがワイルドターキー蒸溜所になり、現在はカンパリ社が所有している。

ルイス・ローゼンスティール Lewis Rosenstiel
ルイス・“ルー”・ローゼンスティールは禁酒法時代に薬用アルコールを販売してひと財産を築き、シェンリー・ディスティリング・コーポレーションを設立した人物である。1920年代には、ウイスキーなどのスピリッツを製造する蒸溜所を30軒ちかく買収。禁酒法が終わると、シェンリーはジョセフ・E・シーグラム&サンズに次ぐ北米第2位のウイスキーメーカーになっていた。

ビル・サミュエルズ・シニア Bill Samuels Snr
1953年にロレット近郊のハッピーハロー蒸溜所を買収し、バーボンのブランド「メーカーズマーク」を設立したケンタッキーのディスティラー。ビル・サミュエルズ・シニアはサミュエルズ家に伝わるウイスキーづくりのレシピを破棄し、より滑らかで洗練されたスタイルのバーボンを製造しようと取り組んだ。出来上がったウイスキーは、合金製装飾品のコレクターだった妻のマージによって「製造者の印」が刻まれるにふさわしいと、「メーカーズマーク」と名付けられた。

ヴィクター・シュワブ Victor Schwab
ジョージ・A・ディッケルの義弟でビジネスパートナーだったヴィクター・シュワブは、ジョージ・A・ディッケル&カンパニーがタラホーマ近郊にあるカスケード蒸溜所の独占ボトリング権を買い取る1888年までに、同蒸溜所の主要株主となっていた。同社はその後もカスケード蒸溜所の運営を継続。近代的に改修されたカスケードハロー蒸溜所は、今でも「ジョージディッケル」を生産している。

シャピラ兄弟 Shapira Brothers
シャピラ5兄弟は、ケンタッキー州バーズタウン南部に蒸溜所を建設し、1934年にヘブンヒル蒸溜所有限会社を設立した。1996年の火事で工場が大きな被害を受けたが、ヘブンヒルは今でも家族経営による独立系スピリッツ製造販売会社としてはアメリカ最大の規模を誇り、ケンタッキー州産ウイスキーの保有量は世界第2位である。

ジョージ・T・スタッグ George T. Stagg
1835年に生まれたジョージ・T・スタッグは、セントルイスでウイスキー販売員となり、E・H・テイラーとチームを組んで現在のバッファロートレース蒸溜所の前身であるオールドファイアーカッパー(OFC)蒸溜所を発展させた。1878年、スタッグは同蒸溜所を他の数名と共に買収し、業務の拡大を続けて多大な影響力を保持した。

フレデリック・スティッツェル Frederick Stitzel
スティッツェルは、小麦からウイスキーを蒸溜する経験を携えて1840年代後半にフランスのアルザス地方からケンタッキーに渡った。彼は蒸留方法を改良して小麦を原料とするバーボンをつくり、1870年ルイスビルでスティッツェル・ディスティリング・カンパニーを設立した。1879年には、オープンリックと呼ばれる貯蔵システムで特許を取得している。

E・H・テイラー・ジュニア E. H. Taylor Jnr
エドモンド・H・テイラー・ジュニア大佐は、数軒の蒸溜所を保有したケンタッキーのウイスキー起業家。1887年、フランクフォート南部に堂々たるオールドテイラー蒸溜所を建設した。また1897年のボトルドインボンド法施行の主導者となり、バーボンウイスキーの品質保証に寄与している。

パピー・ヴァン・ウィンクル Pappy Van Winkle
ジュリアン・“パピー”・ヴァン・ウィンクルは卸売販売「WLウェラー&サンズ」の販売員として出発し、その後1908年に同社を共同で購入した。89歳で亡くなった1965年当時、米国で最年長の現役ディスティラーだった。

アンドリュー・ヴォルステッド Andrew Volstead
ミネソタ生まれの法律家で、共和党所属の連邦議会議員だったアンドリュー・ヴォルステッド。その名は禁酒法と共に、長く記憶されることだろう。1920年に米国からアルコールを締め出した、禁酒法(通称「ヴォルステッド法」)は反酒場連盟のウェイン・ウィーラーによって草稿が書かれ、ヴォルステッドはその法案を積極的に支持した。

ジョージ・ワシントン George Washington
初代アメリカ合衆国大統領のジョージ・ワシントンは、ディスティラーでもあった。所有するバージニア州マウントバーノンの農場で作られたライ麦とトウモロコシから1797年よりウイスキーを生産。その一方で、不平等な酒税に反対する小規模生産者たちが立ち上がった1794年の「ウイスキー・リベリオン」を鎮圧した。

ウィリアム・ラルー・ウェラー William LaRue Weller
ケンタッキーの由緒ある蒸溜所一家に生まれ、小麦を原料にしたバーボンを1849年に出荷した。その後、彼の2人の息子の主導によって、スティッツェル家と関わるようになり、禁酒法の間に両社が合併。ルイスビルでスティッツェル・ウェラー蒸溜所が設立された。

第四弾は著述家を紹介します。

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