アメリカンウイスキー今昔物語【その1・全2回】
アメリカのマイクロディスティラリー産業を、ウイスキーマガジン・ジャパン寄稿ライター・日本在住のアメリカ人、マイク・マーフィーが考察【全2回】。第1回目となる今回は、禁酒法時代を経たアメリカが、スピリッツ文化を発展させていく経緯に迫る。
アメリカでは、消費のためのアルコールの製造、販売を全面的に禁酒した禁酒法という法律が、1919年から1933年まで施行されていた。この禁酒法時代が始まる前のアメリカは、数千ヵ所の蒸溜所やワイナリー、ビール工場などが存在していて、地ビールやワインが造られていた。もちろんすべてが正式なライセンスを持っていたわけではなく、多くが小規模なベンチャーなどであった。禁酒法はそのような製造所を閉鎖してマーケットを失くすことを目的としていたわけだが、結果、ほとんどの醸造所が無くなり、その後もお酒の需要は変わることはなかった。1920年代の当時、アメリカは好景気で、多くの人たちが好きなお酒を飲むために高いリスクを払ってキューバ産のラム、アパラチアの密造酒ムーンシャイン、カナダ産のウイスキーなどを、スピークイージー(秘密バー)や地下室のカジノで飲んでいた。
1933年に禁酒法が廃止され、以前のアルコール生産者が息を吹き返すかと思われたが、その頃のアメリカはまだ大恐慌中で、1940年代には第二次世界大戦もありお酒を製造できる状態になかった。数ヵ所の工場が残っていたのみだと言われている。
禁酒法時代においても、例外的に、薬用のアルコールを生産する許可を受けている蒸溜所もあった。禁酒法施行がもたらした影響のひとつは、海外からのアルコール密輸ネットワークができたことである。しかし、禁酒法時代が終わってからは、このチャンネルが合法になり、現在でもアメリカの渇望に答えていると言える。しかし、廃止以降でも、州や町によっては法律が改正されず、現在でもお酒の売買が制限、禁止されている場所もある。
一方で、外国から多量のアルコールが輸入されたことと、国内の既存の大規模蒸溜所の存在ゆえに、小規模蒸溜所や個人経営及びファーム・ディスティラリーなどは、事業を再開することができなかった。
第二次世界大戦後のアメリカは経済が大きく成長し、戦争から戻ってきた軍人の子孫達が、よりいっそう経済を発展させていく。世界中にビジネスを展開し、新しい技術を開発し、ビジネスマンが海外出張で諸外国を回りながら他文化や食を経験するようになり、結果、人々の食と生活の好みが変わってきた。
「地味な」国産ビールと高価格の輸入酒に飽きてしまったアメリカは、1960年代にワイン産業を再開発する。1976年にアメリカンワインは世界中のアワードを受賞し、高品質ワイン産業を樹立させるのとあわせて、アメリカの一般市民もワインに興味を持ち始めていった。彼らの外食する回数は増え、ワインのサブカルチャーが確立されると同時に、食文化が開花していくのである。
民衆は次にビールに目を向け、1980年代に北米のクラフトブルーイングブームが沸き起こった。ブルワーズアソシエーションによって、1980年代にはわずか8ヵ所しかなかったマイクロブルワリーが2010年までに約1,600ヵ所に増えた。彼らはアメリカのワイン産業を強固にし、マイクロブルワリーを立ち上げた。次なるステップはスピリッツだった。先日、私はアメリカへ出張中に、クラフトディスティラーのパイオニア数名と話す機会を得た。それぞれの理由で蒸溜所を始めた彼らは皆、クラフトディスティリングはアメリカンスピリッツ分野において大きな可能性を秘めていると語る。
グラフ:©Michael Kinstlick, CEO, Coppersea Distilling
[その2へ続く]