今年からウッドフォードリザーブのマスターディスティラーを務めるエリザベス・マッコール。名匠の後を継ぐ重圧や、改革への意欲について尋ねた2回シリーズ。

文:ベサニー・ワイマーク

知れば知るほど、何も知らないことを知る。偉大なるギリシャの哲学者、アリストテレスの言葉だ。この有名な警句は、コーネル大学のデイヴィッド・ダニングとジャスティン・クルーガーの研究によって心理学的にも裏付けられた。能力や専門性や経験が低い人ほど、自分の能力を過大評価する傾向がある。いわゆる「ダニング=クルーガー効果」と呼ばれる認知バイアスだ。

この理論を土台にすると、人間の学びは4段階に分けて考えられる。最初は誰もが、無意識的無能(自分の無知に無自覚な状態)から学び始める。その次は、意識的無能(自分の無知を自覚した状態)だ。さらに学びを深めると、意識的有能(自分の知識の程度を評価できる状態)に至る。そして最後は、無意識的有能(自覚できないほど深い知識を学んだ状態)を目指すのだ。

ウッドフォードリザーブのマスターディスティラーに就任したエリザベス・マッコールには、無知の知がある。言葉を変えれば、自己評価が低い。これまでウイスキー業界で14年も学び続けてきたのに、自分のことをまだ「ひよっこ」だと思っている。自分の無能を自覚しているので、有用な知識を身に着けようと努力している段階にあるのだと本人は言う。

ケンタッキー州ヴァーセイルズにあるウッドフォードリザーブ。クラフトバーボンの先駆けともいえる蒸溜所が、3代目のマスターディスティラーにエリザベス・マッコールを任命した。

マッコールの権限や責任の大きさを考えると、この控えめな態度は自信の欠如に見えるかもしれない。ウイスキーの仕事に就いて以来、あらゆる学びの機会を貪欲に利用してきた。だがやはり、学べば学ぶほど無知に気付く哲学者タイプなのかもしれない。

改めて会社の歴史を振り返れば、マッコールの謙遜も理解できる。再興から26年を数えるウッドフォードリザーブの歴史で、先人のマスターディスティラーは2人しかいない。創業者である偉大な故リンカーン・ヘンダーソンと、このたび名誉マスターディスティラーになった師匠のクリス・モリスだ。その後を継ぐ3人目のマスターディスティラーには、相当な重圧がかかるだろう。

ウッドフォードリザーブ蒸溜所は、ケンタッキー州ウッドフォード郡のヴァーセイルズ(フランスのベルサイユと同じ綴り)にある。ここで1812年にイライジャ・ペッパーと息子オスカー・ペッパーがウイスキーづくりを始めて以来、高品質なバーボンの歴史が受け継がれてきた。
 

本社に勤務しながら自発的に蒸溜所を訪問

 
その謙虚さもさることながら、マッコールから伝わってくるのはウイスキーづくりへの純粋な愛着と情熱だ。ウッドフォードの親会社であるブラウン・フォーマンに入社したのは2009年。無知だった当時の自分をマッコールは次のように振り返る。

「ウイスキーについては、本当に何も知りませんでした。そもそも熱烈なウイスキー愛好家という訳でもなく、単に就職活動中の大学院生だったのですから。でもやがて学びを深めるうちに、ウイスキーの魅力がわかってきました。ちょうどアメリカで多くの人がウイスキーに興味を持ち始めた時期でもあり、私も自然にそうなったのです」

小規模なブランドとしてスタートしたウッドフォードリザーブは、ブラウン・フォーマンの知見も活かしながらバーボンに革新をもたらしてきた。エリザベス・マッコールは、入社以来その多くの過程に立ち会っている。©Zach Sinclair

技術者時代のマッコールは、ウイスキーの製造工程を学ぶために蒸溜所に通い始めた。

「自分が与えられた役職では、そんなことをする必要も特にとありません。それでもとにかく学びたい一心で蒸溜所に通いました」

この蒸溜所通いで、ウイスキーへの情熱が根付いたのは間違いない。やがてマッコールは、ブラウン・フォーマンの海外パートナーを対象にした教育プログラムの開発に携わる。セミナーの監督で世界中を飛び回り、ブラウン・フォーマンのウイスキーを正しく味わうノージングとテイスティングのポイントを解説する仕事だ。

もともとブラウン・フォーマンの本社勤務だったマッコールは、自分がブラウン・フォーマンにとって初めてのアンバサダー的な役割を引き受けたつもりだった。

だがウイスキーづくりの現場で働いている人々は、本社の社員を煙たがっていた。そんな感情に気づいたマッコールは、積極的にコミュニケーションをとるようになった。

「みなさんの仕事の邪魔をするつもりはありません。私たちは、みなさんをサポートするために働いています。みなさんの成功は、私たちの成功ですから。そう言って納得してもらいました」

マッコールは、人と話すのが得意な自分の適性にも気づき始めていた。

「トレーニングで指導したり、知識を伝えたりする仕事が気に入っていました。単に壇上で話すことさえ大好きだとわかってきたんです」
 

師匠クリス・モリスとの出会い

 
そしてマッコールは、社内のスピリッツアカデミーにも受講を申し込んだ。ブラウン・フォーマンが、主に営業部とマーケティング部の社員向けに実施していた歴史ある研修プログラムだ。これもマッコールの仕事に必須のスキルではない。だが本人は、とにかく参加してみたかったのだ。

アカデミーのクラスを率いるのは、マスターディスティラーのクリス・モリス。直接会うのは初めてで、テイスティングの準備や後片付けを手伝った。このときから、モリスはマッコールに特別なものを感じていたと語っている。だがマッコールは自虐的に笑いながら振り返る。

「当時のクリスは、私が誰なのかも知りませんでしたよ。ラボではいちばん下っ端の官能技術者でしたから」

本社勤務でありながら、足繁く現場に通ってウイスキーづくりの知識を習得したエリザベス・マッコール。その類稀な資質は、名匠クリス・モリスの目にも明らかだった。

この出会いがきっかけになり、モリスは2014年にマッコールを別の研修に誘った。マスターテイスターになるためのトレーニングで、教官はクリス・モリス自身だ。研修の内容を細かく聞いた訳ではないが、マッコールは対話や教育のスキルアップになりそうだと思って参加した。

約1年のトレーニングが終わり、マッコールは2015年にマスターテイスターに任命。ウッドフォードリザーブだけでなく、姉妹ブランドのオールドフォレスターのテイスティングもするようになった。そして2016年、マッコールはウッドフォードリザーブの品質管理スペシャリストとして、再び生産現場に呼び戻される。マッコールはクリスや会社の意図に気づき始めていた。

「今度の異動は、一種の後継者教育なのではないかと感じました。今から思えば、引き継ぎを想定した人事だったと思います」

そんなマッコールの疑念は、2018年から確信に変わる。ウッドフォードリザーブのアシスタント・マスターディスティラーを任命されたからだ。ここでマッコールは、クリス・モリスから直接マスターディスティラーの仕事を学ぶことになる。品質管理者としてのモリスには、厳しさがあったとマッコールは回想する。

「クリスはあらゆる商品開発の土台となる厳格なカリキュラムを用意していました。俯瞰的な視点を得るために、ブラウン・フォーマンのすべての生産施設、貯蔵庫、工場で長い時間を過ごさなければなりません。ジャックダニエル蒸溜所にも通いました」

数年間にわたって、マッコールはマスターディスティラーへの道を慎重に歩んできた。だが予期せぬ事態も発生する。

ウッドフォードリザーブの幹部が、2023年の年明けにマッコールのもとを訪れてマスターディスティラーへの昇格について説明した。だが同じタイミングで、マッコールの私生活にも大きな予定が生じていたのだ。会社はマッコールの昇格を2023年7月に予定していたが、その月はちょうどマッコールの出産予定月。そこで発表が急遽2月に前倒しされたのだ。

「マスターディスティラーに昇格する計画は、前から知っていました。でも思いがけず妊娠してしまい、予想とは違う展開になったんです。でも発表のタイミング以外は何も変わりませんでした。今は自分自身の将来とブランドの未来のことを考えてワクワクしています」
(つづく)