木内酒造額田蒸溜所とジャパニーズウイスキーの革新【前半/全2回】
日本でクラフトディスティラリーが次々と開業する2016年。すでに2月からウイスキーづくりを始めている額田蒸溜所は、クラフトビールで有名な木内酒造の新規プロジェクトだ。ベンチャー精神あふれるビジネスの裏側をステファン・ヴァン・エイケンがリポート。
文・写真:ステファン・ヴァン・エイケン
額田蒸溜所は、いま日本でもっとも無名な蒸溜所のひとつといっていいだろう。熱烈なウイスキーファンたちの間でも、その名を聞いてピンとくる人は稀である。しかし同じ場所でつくられるビールの知名度なら抜群だ。木内酒造の「常陸野ネストビール」といえば、印象的なフクロウのロゴでおなじみのブランド。国内のクラフトビールバーはもちろん、米国をはじめ海外での認知度も高い。
木内酒造は、茨城県鴻巣村の庄屋、木内儀兵衛によって1823年に創設された造り酒屋である。ビール部門ができたのは1996年なので、もう20年のキャリアがある。
そんな木内酒造が、リサイクルを促進して廃棄物を減らそうという目的から蒸溜設備を導入したのは2003年のこと。この新しい設備で、まずは酒粕を蒸溜した焼酎をつくった。2008年になると、もともとの日本酒醸造所から4km離れた額田にビール醸造設備を移設。2011年にはその敷地内に大規模な醸造所を新設した。現在、木内酒造は醸造所の隣にワイン畑も保有している。
そして2016年、ついに木内酒造はウイスキーをつくり始める。木内敏之氏いわく、これは決してジャパニーズウイスキーのブームに便乗したものではない。そもそも彼がウイスキーづくりを計画したのは、日本のウイスキーが苦境に立たされていた十数年前のこと。その動機を正しく理解するには、さらに長い歴史を遡らなければならない。
時は今から1世紀以上前の1900年のことである。東京練馬に住む農夫の金子丑五郎氏が、うどんの原料となる国産六条大麦の「四国」と北欧原産の二条大麦「ゴールデンメロン」を交配して、日本初のビール麦を収穫した。出来栄えに満足した金子氏は、この新しい大麦を「金子ゴールデン」と名付け、第2次世界大戦前までに人気を博すことになる。だが戦後になってビール業界が再編されると、より経済的に栽培できる大麦品種への移行を日本政府が促した。さらに安価な輸入大麦の普及も追い打ちをかけて、「金子ゴールデン」は1960年代に姿を消すことになるのである。
伝説のビール麦を復活させ、ウイスキー蒸溜への道を拓く
2004年、木内敏之氏はアメリカ農政省の関連団体で資料用として保存されていた「金子ゴールデン」の苗を12株入手。地元の若手農家で組織する那珂市農業後継者クラブと共同で、伝説のビール麦の再生プロジェクトに乗り出した。そして2009年にはビールづくりに必要な収穫量を達成し、金子ゴールデンを原料にした「常陸野ネストビール NIPPONIA」を世に送り出したのである。
この金子ゴールデン再生プロジェクトの過程で、木内敏之氏が不良とみなした大麦原料がかなり余ってしまった。一部の大麦はタンパク質の含有量が多すぎて、ビールづくりに向いていなかったのだという。このような原料はビールが濁り、マッシュの効率を落とし、品質の一貫性を損ねて全体の生産コストを押し上げてしまう可能性がある。
ビールには使えないこの大麦を、廃棄しないで済む方法はないだろうか。木内氏が行き着いた結論は、この原料を蒸溜してしまうことだった。ウイスキーファンでもある木内氏は、これまでに何度もスコットランドを訪ねた経験がある。ビール用に使えなかった大麦からウイスキーをつくるという発想は、自然に頭に浮かんできた。
額田のビール醸造所を拡張する大型投資が必要だったため、ウイスキーのプロジェクトは数年の待ち時間を余儀なくされた。だが2015年、ようやく包装用倉庫の2階部分を小さな蒸溜所に模様替え。ついに木内酒造によるウイスキーづくりの準備は整ったのである。
額田蒸溜所における最初の蒸溜は、2016年2月10日におこなわれた。この記念すべき最初のバッチは通常のウイスキー用のマッシュからつくられたが、その直後にウイスキーづくりはいったん中断し、古いビールの在庫が蒸溜されることになった。木内酒造の酒類製造免許はこのようなビールの蒸溜もカバーしており、すでに同カテゴリーの商品「木内の雫」が発売されている。自前のホワイトエールを1回蒸溜し(ただし使用するのはウイスキー用のハイブリッドスチルではなく焼酎用のスチル)、コリアンダー、ホップ、オレンジピールを加えてオーク樽で1ヶ月熟成後、さらにホワイトエールを加える。これを再び蒸溜し、さらに6ヶ月間熟成して度数43%でボトリングしたのが「木内の雫」なのである。
(つづく)