Lost Distilleries ポートダンダス蒸溜所

December 29, 2012

丘の上に立つ蒸溜所。ポートダンダス蒸溜所の運命の変遷

今回はグレーン蒸溜所、ポートダンダスにスポットを当てる。ここでは2010年4月、最後のカスクを満杯にしたが、それが最後となる。

この21エーカーの蒸溜所の施設は、オーナーのディアジオが売却し、将来の開発に備えてとり壊れる予定だ
さらに、これと前後して、近接したダンダスヒル・クーパレッジも閉鎖となり、従業員140人が職を失った。ただ、ポートダンダスのスタッフの中には、ディアジオがファイフに所有するキャメロンブリッジ グレーン蒸溜所に移った者もいる。
ここでは、以前から積極的に事業の拡大とアップグレードが行われている。同様に、クーパレッジについても、スコットランド中心部にあるカースブリッジ・クーパレッジに異動となったスタッフもいる。ここは、ディアジオが総工費900万ポンドをかけてカンバス近郊に建設した連携拠点が夏に運行を開始するまで、操業を続けることになっている。カースブリッジとカンバスはかつて、ディスティラーズ・カンパニー社へグレーン供給を担う重要な拠点だったが、それぞれ1983年と1993年に操業を停止してしまった。

ポートダンダス蒸溜所の閉鎖は、1811年にダニエル・マクファーレン社が蒸溜所をこの地に建設して以来続いてきたウイスキーづくりという伝統の終焉を意味する。

同蒸溜所の建設から2年後には、第2の蒸溜所が近くに建設されたが、これはブラウン・ガーレイ社のためのものだった。

1845年3月からは、両蒸溜所はコフィー・スティルによってグレーンウイスキーを製造したが、マクファーレンの蒸溜所では、依然ポット・スティルも装備していた。

ポートダンダスは、フォース・アンド・クライド運河の終着点として1786年から1790年にかけて建設された後、産業発展の中心となっていた。その名前は、運河プロジェクトの著名な後援者だったローレンス・ダンダス卿にちなんで名づけられた。

19世紀には、両蒸溜所とともに、工学・化学的研究やテキスタイル工場、鉄工所および電力発電所はすべて、グラスゴー北部の市街から誕生した。両蒸溜所は1860年代に合併し、1877年にはディスティラーズ・カンパニー社の1部門となった。

ポートダンダスはまた、アルフレッド・バーナードが1880年代半ばに始めた1大旅行の途中で、初めて訪れた蒸溜所としても知られている。彼はここでウイスキーづくりの全工程を見学したが、その時の体験は1887年に出版された『ウイスキー・ディスティラリーズ・オブ・ザ・ユナイテッド・キングダム』に収録されている。

バーナードのポートダンダス蒸溜所の場所についての描写は、すべて引用するだけの価値がある。「ポートダンダス(中略)は、奇妙なことに丘の頂上に建っており、そこからは市がすべて見渡せる。家屋よりはるかに高いこの位置から眺めると、船舶の帆柱の形も変わって見えて驚かされる。37マイルのクライドからフォースまでの直行水路は、活気ある都市群と静謐な村落のそばを通り、郡の美しい風景およびフォースのすばらしい背景を一望できる。しかし、ポートダンダス自体が活気にあふれた商業活動の風景であり、この土地の有望な特徴をなすのはこの蒸溜所である」

第1のスティルハウスについては、「(中略)コフィーの特許取得のスティル」が3台設置されていることに言及している。「これら3台のその後、第2のスティルハウスを訪ねたが、そこではポットスティルを5台設置していた。うち1台の収容力は2万4千ガロンで、英国で最大といわれている」

「この蒸溜所での年間生産高は256万2千ガロンを超えることはない」として、バーナードはこの観察記録を終えている。同蒸溜所は1903年に、大火災に見舞われ、再建のための大規模なプログラムが必須となってしまった。その結果、ウイスキー製造が再開するまで、10年の歳月を要した

その後、ポートダンダス蒸溜所の規模は序々に拡大し、第2次世界大戦後に始まった現代化に合わせ、1970年代には総費用700万ポンドをかけて設備のアップグレードが計られ、その一環として、1976年に古い蒸溜所の敷地内に、コラムスティル一組を設置した新たなスティルハウスが建てられた。約400万リットルの収容力があると誇っていたポートダンダスだが、蒸溜所はついに閉鎖となった。

 

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