禁酒法がバーボン業界に与えた影響【前半/全2回】

September 11, 2016

アル・カポネらの暗躍で知られるアメリカの禁酒法時代は、バーボン業界にとって過去のノスタルジーではない。アメリカンウイスキーの歴史を紐解きながら、デイヴ・ワデルが現在の産業への影響を解説する。

文:デイヴ・ワデル

 

バーボンは、今や世界のブラウンスピリッツ業界で見事な躍進を遂げている。その活況ぶりを見るにつけ、禁酒法というありえないような悪夢によって、一度はこの業界がほぼ瀕死の状態まで追い込まれた歴史を驚きとともに思い出さない訳にはいかない。

今やバーボン業界は、輸出額だけで年間10億ドル以上を叩き出している。世界中で飲まれるバーボンのほとんどを生産するケンタッキー州では、州人口の数を上回る樽がウイスキーを熟成中である。現在、アメリカには数百の蒸溜所がある。約350年におよぶウイスキーとの関わりを巨視的に捉えれば、アメリカの禁酒法は前進し続ける業界にちょっとだけ影が差した、ウイスキー史の1ページに過ぎないと思いたくもなる。だがもちろん物事はそんなに単純ではない。

禁酒法が発効したのは、1920年1月17日のこと。アメリカ合衆国憲法修正第18条によって、酩酊を誘う飲料の生産と販売が禁じられた。密造酒や自家製ワインなどでしたたかに酔ったアメリカ人たちの風刺画などで、禁酒法の歴史は一般的にも知られている。組織犯罪、国境の抜け道、そこから入国するカナダやスコットランドの密輸業者。そして個人あたりのスピリッツ消費は、常識からは考えられないほどに上昇した。1919年には3億6,500万ドルの税収をもたらしていた国内の蒸溜酒製造業界を、禁酒法は一息で根絶やしにしてしまったのである。

20世紀初頭には3,000軒近くあった蒸溜所は、そのほとんどが廃業して永久に再興を諦めた。政府から特別な許可を得てアルコールを生産できた会社や、将来を見通せた会社など、ほんのわずかな裕福で幸運なメーカーを除けば、優れた蒸溜技術を持つ人材が一世代分まるごと禁酒法によって消滅してしまった。その結果、生き残った蒸溜所やブランドの4分の3以上が、4つのコングロマリット(ナショナル・ディスティラーズ、シェンリー、ハイラム・ウォーカー、シーグラム)に吸収されることになった。

これらの企業は、さまざまな種類の古い原酒をほんの少しだけ保有していた。大恐慌の最中、売り先もない原酒をただ抱えているしかなかったバーボン業界は、第2次世界大戦に突入する前にやっとのことで事業を立て直し始める。戦時中に需要があったのは、軍部に納入する卸売部門だ。その後の20世紀のほとんどは、売れ筋ナンバーワンのスコッチウイスキーと、軽快で使い勝手がいいカナディアンウイスキーを目標にして生産量を増やしていくことになった。

要するに禁酒法は、恐慌や戦争の力も借りながら、アメリカ産のストレートウイスキーだけを狙い撃ちにして弱体化させたのである。昔から何度も語られている話なので手短かにしよう。戦後のアメリカで、バーボンは一度バーや家庭に返り咲くことができた。特に1945年から60年代までの間、力強く成長したバーボンは平和な時代の米ドルパワーに支えられてカムバックした。だが禁酒法とその後の時代で、昔ながらの長期熟成されたバーボンはほとんど入手できなかったため、アメリカのウイスキー消費者層の習慣と嗜好は変わってしまっていた。人気のウイスキーといえばスコッチで、在庫豊富な長期熟成のカナディアンウイスキーがカクテルのルネッサンスを巻き起こしていたのだ。

ウイスキー評論家のチャック・カウダリー氏によると、当時のバーボンは労働者階級の酒とみなされていた。それが悪いことであったと一概にはいえない。古株のバーボンファンなら誰でも知っていることだが、バーボンは概ね品質が良く、中には非常に良いものや傑作と呼べるボトルもあった。

警察の強制捜査を受けるデトロイトの蒸溜所。1920〜1933年に施行された禁酒法は、自由の国アメリカのもうひとつの顔を映している。

スティッツェルウェラー蒸溜所は、1935年以来、みずからの伝説を着実に積み重ねていた。ナショナル・ディスティラーズとシェンリーからも、素晴らしいウイスキーが何種類か発売されていた。ビーム社などたくさんのメーカーのルーツを遡れば、戦後も禁酒法以前のスタイルのウイスキーが生産されていた事実がわかるだろう。

だがわずかな例外を除けば、どのウイスキーもあまり売れなかった。売れたにしても、大成功ということはなかったのである。その代わり、特に1960年代からは、サゼラック社の会長兼CEOだったマーク・ブラウン氏が提唱したように、4大メーカーは生産設備の一新を大々的に始めた。「フォードや、ゼネラル・モーターズや、クライスラーの車のようにウイスキーを売ろう。大量につくって、店頭に商品を積み上げて、安く売ろう」という方針が主流になったのである。

 

そしてバーボンは暗黒時代へ

 

ブラウン氏によると、この方針によって各社のウイスキーづくりの戦略はパニック状態になり、全体としてバーボン自体の個性を弱体化させることになった。ブラウン氏いわく、1960年代に起こった製品の規格化や効率性重視の流れはバーボンのスタイルを変えてしまった。すなわち古風なノウハウから、化学者とエンジニアによる大量生産への移行である。

そのようにしてつくられたのは、技術的には優れているが、品質は均一で個性や魅力に欠けるウイスキーだったとブラウン氏は述べている。スコッチのプレミアムなステイタスを目標とし、スコッチやカナディアンの特徴を手にする生産技術を土台にしたため、ビッグメーカーはバーボンの力強い個性を押し出すことにほとんど関心を持たなくなった。

もともとのバーボンは、スコッチやカナディアンと異なる独自の特徴を大切にしたウイスキーとしてつくられていた。しかしビッグメーカーは、独自の個性を発揮するよりも、輸入ウイスキーの現地生産バージョンをつくりたがったのである。まずはブレンデッドを実験的に生産し、次はより度数の高い蒸溜液を古樽で熟成した通称「ライトウイスキー」を生産した。

ブレンデッドは、短期間には経済的な成功を収めた。1971年には、アメリカのスピリッツ市場でアメリカンブレンデッドウイスキーが約18%のシェアを獲得したのである。しかしこのカテゴリー(アメリカンストレートウイスキーのブレンドとの混同に注意)は現在ほとんど消え失せ、特にバーボンを飲む層には無縁の存在である。一方のライトウイスキーは、大手バーボンメーカーのクリエイティブ思考の乏しさを露呈するかたちで絶望的な失敗に終わった。その結果、1971年から1981年までの10年でバーボンの売上は33%も下落し、対照的にスコッチは9%上昇。カナディアンに至っては49%という驚異的な伸びでアメリカ本国の生産者を脅かした。どれもウイスキーの売上が世界的に落ち込んだ時期、もっとも活況だったアメリカ市場で起こった変化である。

細かい解説は不要だろう。バーボンは暗黒時代に入った。バーボンのカテゴリーは、まるまる1世代分の長きにわたる下降期に入ったのである。ウッドフォードリザーブのマスターディスティラーであるクリス・モリス氏いわく、当時のバーボン業界は自動操縦状態で打つ手がなかった。貯蔵中のバーボンは、どんどん売りにくくなって放置されていた。アメリカの若い世代は、やや古風で厚かましいわりに中身のないライトボディのブラウンスピリッツに飽きがきて、本当にライトな新しいスピリッツであるジン、ホワイトラム、テキーラ、ウォッカに目移りした。

ビッグメーカーたちは合理化に乗り出した。生産業務は一部が削減され、一部が加速された。ウイスキーの生産は複数の拠点にまたがっておこなわれるようになった。代々続いてきた蒸溜所がいくつも倒産した。古いレシピは見捨てられ、忘れられ、失われた。最下段の棚をめぐる価格競争が利幅をさらに減らし、ついには信用も失墜したのである。(つづく)

 

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