世界のウイスキー、100人のレジェンド その1【全4回】

May 24, 2012



英国ウイスキーマガジン通巻100号を記念し、ウイスキーの輝かしい歴史を作った100名をリストアップ。全4回の掲載となる第一弾は、カナダ、アイルランド、インド、日本の著名人を紹介する。

文:ガヴィン・スミス、イアン・バクストン(人名は項目別アルファベット順)

カナダ

サミュエル・ブロンフマン Samuel Bronfman
1889年、現在のモルドバ共和国に生まれたのち家族と共にカナダへ移住。蒸溜酒製造会社「ディスティラーズ・コーポレーション」を設立。1928年にジョセフ・E・シーグラム&サンズを買収すると会社名を「シーグラム」に変更し、飲料業界において数カ国にまたがる巨大帝国を築いた人物である。

ジョセフ・ホッブズ Joseph Hobbs
ウイスキー界にさまざまな逸話を残したホッブズは、1891年にイングランドのハンプシャーで生まれた。1900年に両親とカナダへ移住。築いた財産を大恐慌で失ったものの、スコットランドに渡って蒸溜所ビジネスで成功した。1944年から亡くなるまでの20年間、ハイランドのベン・ネヴィス蒸溜所を保有したことで知られている。

ハイラム・ウォーカー Hiram Walker
1816年、米国マサチューセッツ州生まれ。デトロイトのビジネスマンだったウォーカーは、1854年からウイスキー製造を始め、のちにカナダで蒸溜所を設立した。私財を投じてオンタリオに「ウォーカーヴィル」という町を造りあげ、カナダ産ウイスキーとしては初めての世界的ブランド「カナディアンクラブ」を生みだした。


アイルランド

サミュエル・ボイド Samuel Boyd
ブッシュミルズの長きに渡る名声は、サミュエル・ボイドによるところが大きい。ベルファストでワインやスピリッツを販売していたボイドは、1923年にアントリム州の蒸溜所を破産管財人から買い取り、輸出を促進することによって数年で事業を健全な財務状態に戻した。1932年に世を去ったが、1946年まで遺族がブッシュミルズを保有していた。

イーニアス・コフィー Aeneas Coffey
フランスで生まれ、アイルランドの物品税監査官となったコフィー。一時ダブリンのドック蒸溜所を保有し、1831年に設計した連続蒸溜機の特許で知られる人物である。彼の名を冠したコフィー・スチルよって、比較的安価なグレーン原料のスピリッツが大量生産できるようになった。アイルランドのウイスキー業界はこの蒸溜機を受け入れなかったが、スコットランドの蒸溜所に採用されてブレンデッドウイスキーの大量生産が始まる。

パディー・フラハティー Paddy Flaherty
コーク生まれのパディー・フラハティーは持ち前の社交性を活かして、1881年からコーク・ディスティラリーズ・カンパニーでセールスマンを務めた。彼が売り込む「オールドアイリッシュウイスキー」の売上はとても好調で、パブの店主たちはみな「パディーのウイスキー」と呼んで、注文を入れたという。1912年「パディーアイリッシュウイスキー」とブランドを正式に改名。 今日でもアイルランド第3位の売上を誇るウイスキーだ。

ジョン・ジェムソン John Jameson
アイルランドのウイスキー史における最重要人物の一人だが、実は1740年スコットランドのアロアで生まれた。1780年にダブリンのボウ・ストリートにあった蒸溜所を手に入れ、その後20年のうちに生産力を年間100万ガロンにまで拡張。1805年の時点で、ジェムソンは売上世界一のウイスキーとなっていた。

ジョン・ロック John Locke
1843年、ジョン・ロックは18世紀に設立されたウェストミーズ州キルベガンのブルスナ蒸溜所を買収し、この簡素な生産拠点に改良を加えてアイリッシュウイスキーの代表格に仕立て上げた。蒸溜所は1957年に閉鎖されたが、近年になってクーリー蒸溜所の援助による小規模のウイスキー生産が同地で再開されている。

ケヴィン・マコート Kevin McCourt
アイルランド人の実業家。1968年から10年間にわたってアイルランド蒸溜所連合(後のアイリッシュ・ディステイラーズ・グループ) の最高経営責任者を務めた。任期中、蒸溜所連合を構成する3つの蒸溜所をさらに統合し、コーク州ミドルトンで一括生産することによってウイスキーづくりの合理化を推進。さらにブッシュミルズも買収している。

ジェイムズ・マーフィー James Murphy
1825年、ジェイムズ・マーフィーはコーク州ミドルトンの旧毛織工場をジェレマイア、ダニエルという2人の兄弟と共に買い取り、その後アイルランドで最も重要な蒸溜所のひとつに変貌させた。1867年にはコーク市内にあった2つの蒸溜所と統合し、「コーク・ディスティラリーズ・カンパニー」を設立している。

ジョン・パワー John Power
1791年にダブリンで蒸溜所を設立した宿屋の主人、ジェイムズ・パワーを父に持つ。ジョン・パワーは1817年に父の事業を引き継ぎ、ダブリンきっての実業家として活躍するようになった。彼が設立した会社は、アイリッシュウイスキーの王座をジョン・ジェムソン&サンと争うまでに成長している。

ジョージ・ロウ George Roe
ロウ家が所有していたトーマス・ストリート蒸溜所は、19世紀より知られるダブリン4大蒸溜所「ビッグ・フォー」のひとつ。家業を継いだジョージ・ロウとその息子の代に、事業は飛躍的に拡大した。彼らの手によって、トーマス・ストリート蒸溜所はダブリン最大の蒸溜所に成長したのである。

ジョー・シェリダン Joe Sheridan
ジョー・シェリダンは、大西洋を横断する飛行機の乗客に暖をとってもらうため、リマリック州フォインズのシャノンハウスホテルでアイリッシュコーヒーを発明した人物である。コーヒー、アイリッシュウイスキー、クリームを混ぜ合わせるレシピは1942年の冬に初めて作られ、乗客の一人だった米国人ジャーナリストのスタントン・デラプレイン(ピューリッツァー賞受賞者)によってサンフランシスコに伝えられた。

ダニエル・ウィリアムズ Daniel E. Williams
60年間に渡ってオファリー州のタラモア蒸溜所で働いたダニエル・ウィリアムズ。 所長時代に工場は近代化され、産出するウイスキーがアイルランドでナンバーワンの輸出ブランドとなる。彼の名前のイニシャル「DEW」はブランド名「タラモア・デュー」にも使用され、「すべての男にDEWを」というキャッチコピーで広告が打たれた。1921年逝去。


インド

エドワード・ダイアー Edward Dyer
1820年代後半にカサウリ蒸溜所を設立したダイアーは、インドにおけるウイスキーづくりの始祖。醸造と蒸溜に必要な設備を船に乗せてガンジス川を上り、牛車でヒマラヤの麓へと運んだ。カサウリ蒸溜所は現存するアジア最古の蒸溜所であり、今日まで稼動している世界最古の蒸溜所のひとつでもある。

シュリ・ラダクリシュナ Shri J.N. Radhakrishna
1948年にアムルット蒸溜所を創設したシュリ・ラダクリシュナは、インディアン・ウイスキーの父のひとり。イニシャルから「JNR」の愛称で知られた。当初は「国産外国酒」というカテゴリーの蒸留酒をつくっていたが、1950年代後半までに熟成の手法を改良し、モルトウイスキーの品質を向上。近年、アムルットのモルトウイスキーはその確かな品質を世界に知られるようになっている。

 

日本

岩井喜一郎 Kiichiro Iwai
岩井喜一郎は、竹鶴政孝と共に大阪の摂津酒造で働き、竹鶴のスコットランド留学を後押しした人物である。竹鶴が帰国時に持参した貴重な「竹鶴リポート」は、岩井が本坊酒造でウイスキー蒸溜所を創設する際に役立った。

佐治敬三 Keizo Saji
3人の息子をもうけた鳥井信治郎の次男。後年にはサントリー会長となって、同社の国際的な評価を高めた。和食とウイスキーの相性を追求し、実践することで、ウイスキーが日本の料理とも合うことを証明した。日本国内のウイスキー消費を拡大させた功労者としても知られている。

竹鶴政孝 Masataka Taketsuru
造り酒屋の息子として生まれ、スコットランドでウイスキーづくりを学んだ竹鶴政孝は、寿屋(現サントリー)の鳥井信治郎の要請を受けて山崎蒸溜所の設立に尽力した。1934年には寿屋を退職し、後にニッカとなる大日本果汁株式会社を設立。北海道に余市蒸溜所を建設した。日本の二大メーカーが発展する礎を築いた、ジャパニーズウイスキーの父として知られる。

鳥井信治郎 Shinjiro Torii
日本のウイスキー史において最も影響力のあった人物のひとりである。もともとは薬問屋だったが、洋酒を輸入するビジネスに興味を持ち、その後1923年に日本初のウイスキー専用の蒸溜所である山崎蒸溜所を設立。設立した寿屋は後にサントリーと社名を変え、現在も日本のウイスキー産業をリードしている。

第二弾はウイスキーの聖地、スコットランドの偉人を紹介します。

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