酒類業界で最大手のディアジオは、伝説的な企業の遺伝子を継いでいる。ディスティラーズ・カンパニー・リミテッド(DCL)の歴史をたどる2回シリーズ。

文:マーク・ジェニングス

 

ウイスキーの歴史において、ディスティラーズ・カンパニー・リミテッド(DCL)ほど激動の時代を経験した企業も珍しい。

設立された1877年からギネス社に買収される1980年代まで、DCLは戦略的なビジョンと適応力を駆使しして生き延びた。その過程では、畏敬の念だけでなく失望や反発などのさまざまな感情も引き起こしている。品質に対する妥協のないこだわりを守りながら、生々しいまでの資本主義を体現する物語でもあった。

あらためてウイスキー史におけるDCLの転換点をたどりながら、この強力な企業がウイスキー業界全体に与えてきた影響について振り返ってみたい。世界中でウイスキーが愛される現代だからこそ、スコッチウイスキーへの認識を形作ったDCLの歴史は細部までが面白い。

スコットランドのウイスキー業界にとって、19世紀後半は激動の時代だった。時代の荒波が迫っていることを認識したメーカー数社は、ブレンド用のグレーンウイスキーを適正な価格で安定させるために業界団体を構想。これが1865年設立のスコッチ・ディスティラーズ協会として具現化する。

キャメロンブリッジ蒸溜所(写真は1927年当時)は、現在もディアジオ帝国を支えるグレーン蒸溜所。スコッチで最初の大企業であるDCLは、ローランドのグレーンウイスキー蒸溜所6社で設立された。メイン写真はグレンオキル蒸溜所の従業員たち。

当初は緩やかな業界団体として始まったスコッチ・ディスティラーズ協会だが、1877年10月5日にディスティラーズ・カンパニー・リミテッド(DCL)として生まれ変わる。その実体は、ローランドのグレーンウイスキー蒸溜所6社が合併した企業体だった。

創立に参加した企業は、M・マクファーレン社(グラスゴーのポートダンダス蒸溜所)、ジョン・ボールド社(アロアのカースブリッジ蒸溜所)、ジョン・ヘイグ社(ファイフのキャメロンブリッジ蒸溜所)、マクナブ・ブラザーズ社(メンストリーのグレンオキル蒸溜所)、ロバート・モーブレイ社(カンバスのカンバス蒸溜所)、スチュワート社(キルクリストンのキルクリストン蒸溜所)である。

この6社が協力し合いながら生産を管理し、グレーンウイスキーの品質を一定に保ち、競争が激化するウイスキー市場で勝ち抜ける力を生み出すために新会社は設立された。そのような一般的な理解とは異なり、ウイスキーの歴史に詳しい評論家のデイヴ・ブルームはこの合併を次のように解釈している。

「この6社の経営者は、みな利口で計算高いビクトリア時代の資本家でした。つまり生産規模の集約を通して、利益を増大できる見込みを理解していたから手を組んだのでしょう」

この6社による打算に基づいた団結は、1898年のいわゆるパティソン事件後のウイスキー不況でDCLを助けることになった。パティソン事件とは、悪名高いパティソン兄弟が粉飾決算や原酒の入れ替えなどの不正行為によってウイスキー業界全体への信頼感を損ねた大きなスキャンダルである。

このパティソン事件によるウイスキー業界への信頼失墜は、19世紀後半のウイスキーブームを終わらせる元凶になった。長年にわたる不正行為と無謀な投資により、有力なブレンデッドウイスキーのメーカーが次々に破産した。兄弟の悪行は金融パニックを引き起こして社会問題になり、多くの蒸溜所の閉鎖とウイスキー業界の再編をもたらしたのだ。

そんな混乱のさなかで、重要なプレーヤーとして台頭したのが他でもないDCLだ。多数のメーカーが経営難に陥ったことで、DCLがその資産を買収する好機が生まれた。資金力にまさるDCLは、ウイスキー市場における支配力をさらに強化することになる。

そのような買収劇の一例が、リースにあったパティソン兄弟の貯蔵庫だ。ロバート・パティソンとウォルター・パティソンが推定6万ポンドを投じた貯蔵庫が競売に掛けられると、DCLはわずか2万5千ポンドで落札に成功。このような抜け目のなさがDCLの地位を強化し、ウイスキー業界における将来の支配の基盤を築くこととなった。
 

戦争と禁酒法を乗り越えて

 
時代は20世紀に移り、世紀の変わり目がDCLにさらなる機会とチャレンジをもたらす。積極的な拡大戦略に乗り出したDCLは、多数の蒸溜所を買収して生産力を増強した。そして第1次世界大戦が始まる1914年までに、「世界最大のウイスキーメーカー」を自称するようになっていた。

ジョン・ヘイグ社を1919年に買収したのは、DCLがブレンデッドウイスキー市場に本格参入する意思表示でもあった。当時のジョン・ヘイグ社は卓越したブレンディング技術と有名なウイスキーブランドを抱えており、DCLの戦略にとって重要な足がかりとなった。この時期の買収ラッシュは、単なる成長のためというよりも市場の独占を目指したアグレッシブなものだった。

有名な米国の禁酒法を筆頭に、飲酒の習慣に対する忌避感は世界中に広まっていた。DCLはウイスキー業界のさまざまな危機を乗り越えてきた。

その一方で、この時期にはさまざまな難題も生まれていた。第1次世界大戦の勃発によって英国政府が戦争関連の資源調達を優先し、アルコール生産に大幅な制限が課されたのだ。ウイスキーメーカーのDCLも、事業の一部を爆薬の製造に欠かせない工業用アルコールの生産に置き換えた。このような経営の多角化によって、DCLは戦争の嵐をなんとか乗り切ることができた。

そして1920年代からは、さらなる狂乱の時代が始まった。米国で1920年に施行された禁酒法により、スコッチウイスキーの主要な輸出市場が消滅。ウイスキー業界は最大の難局に直面することになり、多くのメーカーが対応に追われた。ここでのDCLの対応は、多面的かつ戦略的なものだった。つまり米国市場への未練を断ち切って、英連邦を中心とした他の世界市場を開拓したのだ。

カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど英連邦諸国で、DCLはすでに強力な流通ネットワークとパートナーシップを確立していた。この販路を拡大することで、DCLは禁酒法の影響をうまく軽減できたのだ。米国のウイスキー市場は消滅した(少なくとも公式には)が、他の安定した海外市場がDCLの命綱となって成長を継続したのである。

そして1925年には、さらに重要な動きがあった。ジョン・ウォーカー&サンズ社と合併したばかりのブキャナン・デュワー社が、株式の持ち合いでDCLの経営に参画したのだ。当時の「ビッグ3」による経営統合で、ウイスキー業界最大のブレンデッドウイスキーメーカーとして市場を席巻していく。その2年後には、ホワイトホース・ディスティラーズ社も加ってさらにシェアを拡大。世界的な混乱にもかかわらず、DCLは長年にわたって業界を支配する体制を整えていった。

このような経営規模の拡大期について、デイヴ・ブルームは次のように論じている。

「巨大企業が、資本の力で競争相手を支配しているようにも見えます。でもそれは一面的な評価です。皮肉なことに、拡大方針を続けるDCLは、スコッチウイスキーの品質を向上させていく急先鋒だったからです。この時期のDCLには、『ウイスキーを世界に広めるためには、一貫性があり、品質が良く、大量に供給できる製品が必要だ』という信念がありました」
(つづく)