佐久間正のウイスキーづくり【前半/全2回】

4月 9, 2026

ウイスキーの殿堂入りを果たした佐久間正氏(ニッカウヰスキー元チーフブレンダー)に、職業人生とウイスキーづくりへの思いを訊ねた2回シリーズ。

文:WMJ

ウイスキーマガジンが主宰する「ホール・オブ・フェイム」で、ジャパニーズウイスキーを代表する功労者が殿堂入りを果たした。佐久間正氏は6年前までニッカウヰスキーのチーフブレンダーを務め、昨年に関連会社での勤務も終えたばかり。職業人生に一区切りがついたタイミングで、殿堂入りの朗報が届いたことになる。

ニッカウヰスキーの歴代ブレンダーのなかで、佐久間正氏は国内外のウイスキー愛好家にもっとも馴染み深いひとりかもしれない。ウイスキーグラスを片手に、落ち着いた口調でテイスティングを指南する姿はセミナー会場などでおなじみだ。

そんなニッカの顔として知られる佐久間氏だが、ブレンダーになったのは意外にも50歳を過ぎてからのこと。それ以前は蒸溜所でのウイスキー製造や、酒類製造に必要な原料調達に多くの時間を費やしてきた。

佐久間正氏はどのようにして卓越したニッカのウイスキーづくりを継承し、ジャパニーズウイスキーを象徴する存在になったのか。ロンドンで開催された表彰式の直前に、これまであまり語られることのなかったウイスキー人生の一端を明かしてくれた。

自然科学と北海道へのあこがれ

東京都内で生まれた佐久間正氏は、2歳から愛知県名古屋市で育った。現在の守山区に住んで幼稚園と小学校に通ったが、小学3年生のときに隣接する春日井市に引っ越す。現在の高蔵寺ニュータウンは、10万人以上が暮らす中京圏最大のベッドタウンだ。しかし当時はまだ開発の最初期で、小学校も全校40人ほどしかいなかったのだという。

「町の周りには、昔ながらの山や田畑が広がっていました。近くの原っぱや山で、よく虫取りなどをして遊んだものです」

小学1年生の頃から、佐久間氏は自宅で学習百科事典を愛読していた。興味のない歴史の巻などには見向きもせず、もっぱら自然科学に関心が向かっていたのだという。

日本を代表するブレンダーの一人だが、ブレンディングを始めたのは50歳を過ぎてから。原酒づくり、原料調達、海外任務などの経験からウイスキー製造を多角的に学んできた。

「動物や植物の巻を繰り返し読んで、その次の天文学の巻も好きになりました。電気や機械の巻は飛ばして、化学の巻にも没頭しました。全集を買ってもらったのに、いつも好きな3巻だけを開いていたんです。野山での遊びに親しんでいたので、自然科学への興味がはぐくまれたのかも知れません」

ニュータウン内での引っ越しを経て、春日井市内の高校に通った。北海道大学に入学したのは、父親の影響もあるのだという。

「西部劇が好きな父は、カウボーイにあこがれていました。東京都立園芸高校を卒業後、北海道の牧場で働いた頃の思い出を聞かされたものです。そのせいか私も北海道に住んでみたくなり、北大受験に挑戦したところ、たまたま合格できました。当時の北大は、理類教養課程1年間の成績順に希望の学部を選べるシステムです。第一志望の農学農芸科に、定員ギリギリで入れてもらいました」

北大農学部の農芸科学科では、応用菌学を専攻した。当時の北大理系学部は、教授の推薦から就職先を決めるのが通例だった。佐久間氏は微生物を扱う企業に就職したいと考えており、大学院進学も視野に入れていた。

「進路について迷っていたとき、教授に『ニッカはどうだ?』と打診されました。しばらく考えましたが、『美味しいお酒が飲めるなら、ニッカでもいいかな』と思って決めたんです。 学生時代からお酒は好きなほうで、もっぱら下宿や近所で仲間と一緒に飲んでいました」

将来の土台となった余市での原酒づくり

新卒でニッカウヰスキーに入社し、2ヶ月の研修が終わって配属が決まる。1982年の同期入社は3人だけで、全員が各地の工場に振り分けられた。佐久間氏の赴任地は、北海道工場(北海道余市蒸溜所)である。

余市蒸溜所は、今から90年以上前に竹鶴政孝が開設した重要な生産拠点だ。世界的にも珍しい石炭直火蒸溜を維持している。新人の佐久間氏も、炉に石炭をくべる作業を担当した。だがいちばん忘れられないのは、夏場の煙道掃除だったという。

佐久間正氏はホール・オブ・フェイム受賞に際し、次のように語った。「今回の受賞はニッカのつくり手としての総力が評価されたものであると思っています。またニッカをサポートしてくれた愛飲家の皆様のおかげです」

当時のニッカは「世界に冠たるウイスキーをつくろう」という掛け声のもと、原酒の品質向上に取り組んでいた。余市蒸溜所でも生産工程の細部を見直している最中で、若き佐久間氏も日々のチャレンジを実地で体験することになった。

「まずは教科書に立ち返って、しっかりできてないことを見直しました。たとえば微生物の管理精度や麦汁の透明度を高め、タンク類の清掃を徹底するといった地道な改革です。でも2〜3年経った頃には、原酒の質も目に見えて良くなってきました。アルコール収率も増え、私が余市での勤務を終える5年間でほぼ取り組みが完了したんです」

余市蒸溜所で働いた5年間は、現在のニッカを支える原酒の基礎が固められた時期でもあった。実際に手を動かした佐久間氏の心にも、「ニッカの原酒は世界一」という自負が生まれる。後年に受賞する世界的なアワードも、この時期の努力があってこその成果である。

北海道時代には、ワイン造りにも関わった。ライバル企業に対抗するため、余市で醸造用ブドウを栽培しようという機運が社内で高まったのだ。佐久間氏も長沼町の中央農業試験場で1年弱ほどワインの研究に没頭した。この時期に学んだ酒造全般の知識は、本社に帰還後も活かされることになる。
(つづく)

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