受け継がれるニッカのブレンド哲学【前半/全2回】
文:WMJ
ニッカウヰスキーの創業者であり、初代マスターブレンダーでもある竹鶴政孝は、生涯をかけてそのようなウイスキーづくりの総体を大きく育てた。それぞれ個性的な2箇所の蒸溜所でモルト原酒を製造し、独自の設備で高品質のグレーン原酒も製造しながら、戦略的な樽熟成によって保有する原酒のバリエーションを広げてきた。
気が遠くなるほどの手間と時間をかけた原酒づくりは、ブレンディングによって報われる。ブレンダーたちの肩には、同僚たちが積み重ねてきた努力を最大限に活かす責任がのしかかる。ニッカウヰスキーでは、柏工場にあるブレンダー室がその司令塔だ。
ブレンダー室長やチーフブレンダーは、ただ美味しいウイスキーを調合するだけの職位ではない。原酒のつくり分け、熟成の進度、在庫の状況などを見極め、将来にわたって持続可能なレシピを考案する立場でもある。官能評価はもちろん、市場の大きな動きも勘案しながらビジネス全体を見通せなければならない。
だからこそニッカウヰスキーのチーフブレンダーは、ウイスキーづくりを多面的に理解した者だけが担える職責だ。今年のワールド・ウイスキー・アワードでウイスキーの殿堂入りを果たしたOBの佐久間正氏も、チーフブレンダーになる以前は蒸溜所での原酒づくりや海外での原料調達に長く関わっていた。
新しい商品の風味を差配し、創業以来の伝統を将来につなげる。そんな重責を2025年から担うようになったのが、現チーフブレンダーの井関潤治氏である。
ビール開発からウイスキー製造のスペシャリストに
井関潤治氏は、佐久間正氏と同じ北海道大学農学部農芸化学科で学んだ。これまでのチーフブレンダーと異なるのは、ニッカウヰスキーではなくアサヒビールに入社したことだ。1996年に入社後、ビールの泡や香り成分の化学分析などの研究に携わる。その後ビール開発部に異動して、パイロットプラントとテストブルワリーを駆使しながら新商品開発を3年ほど続けたのだという。
「当時の現場で学んだ機器分析のスキルは、ウイスキー製造の現場でも役に立ちました。ガスクロマトグラフィーなど、香り成分を調べる機械にも親しんでいます。アサヒビールはビール醸造の技術水準も高いので、仕込みや発酵の経験がウイスキーづくりに活かせました」
転機が訪れたのは、2001年のこと。ニッカウヰスキーとアサヒビールが営業統合した年に、アサヒビールの技術部門からニッカに出向した社員の第一号が井関氏だった。配属先はブレンダー室である。
「ブレンダーという仕事の内容もわからないまま、新しい世界との出会いにワクワクしていました。でもブレンダー室は、ニッカのなかでも一目置かれるような部署。アサヒビールから出向でやってくる若手社員として、それなりに厳しい目が向けられていることも感じていました」
それでも井関氏には、ニッカのウイスキーづくりが性に合ったようだ。その後はアサヒビールの業務に戻ることなく、みずからの希望でウイスキーづくりに関わり続けている。
「当初は2〜3年の予定だったらしいのですが、結局2010年まで9年もブレンダー室で働きました。私も戻りたいとは言わなかったし、ニッカウヰスキーも受け入れてくれたんです。でもずっとブレンダー室のままではいけないと自分なりに考え、北海道か宮城の工場でウイスキー製造に関わりたいと希望を出しました」
異動先となった北海道工場(余市蒸溜所)では、まず品質管理部長を務めた。製造時のさまざまな工夫によって、多様な原酒をつくろうと試験を繰り返す。およそ2年半が過ぎた頃、井関氏は工場業務の改革を思い立った。コンパクトな蒸溜所を最大限に活かすべく、製造部と品質管理部を統合して、製造計画や製造条件、品質管理なども含めてトータルで原酒をつくろうという提案だ。
「品質管理部長も3年近くやっていたので、そろそろ異動かもしれないと思い、次につなげる気持ちでいました。結果的に私の提案を会社が受け入れたのですが、『それならお前が全部やれ』とばかりに製造部長とエンジニアリング部長も兼任することになりました。合計で7年半を過ごした余市蒸溜所での経験に、今も感謝しています。本社やブレンダー室の勤務だけでは、決して得られない学びがありました」
その後、井関氏はチーフブレンダーの佐久間正氏や尾崎裕美氏も経験した原料調達に5年ほど携わり、2023年からブレンダー室長に任命された。ブレンダー室には、2010年以来13年ぶりの帰還である。
(つづく)






