オールドプルトニーの200周年を祝って【第1回/全3回】
文:ガヴィン・スミス
だがここ20年ほどで、新しいメーカーも立ち上がっている。現在のケイスネスには、プルトニーの他に4つの蒸溜所がある。スコットランド本土の最北端で、さまざまなウイスキーがつくられているのは喜ぶべき状況だ。それでも老舗のプルトニーには、まだまだ新しい蒸溜所が真似のできない強みもある。たとえば、50年熟成のシングルモルト。希少な長期熟成の原酒をボトリングできるのも、19世紀からの歴史があるプルトニー蒸溜所だけだ。
記念すべき創業200周年にあわせて、プルトニー蒸溜所は3種類の新しいシングルモルトをリリースする。そのひとつは、プルトニー史上最高酒齢となる50年熟成の限定品「オールドプルトニー50年」である。他にも30年熟成の「オールドプルトニー30年」が数量限定で発売され、10年熟成の「オールドプルトニー10年」が創業200周年の限定品として現地の蒸溜所のみで販売される。
これら特別な限定品のボトリングに、社内で重要な役割を果たしたのがサラ・バージェスだ。昨夏から親会社のインターナショナル・ビバレッジでウイスキー商品の開発者(マスター・オブ・ウイスキー・クリエーション)を務めている。
サラはこれまでディアジオ(クライヌリッシュ、グレンキンチー、オーバン)、マッカラン、そして直近ではレイクス蒸溜所でも要職を務めてきたプロフェッショナルだ。今回の特別なボトリングについて、次のように説明してくれた。
「蒸溜所の特別なアニバーサリーにあわせ、あっと驚くようなウイスキーをリリースしたいと考えていました。単に節目の年を記念するだけでなく、蒸溜所の長い歴史を祝い、すべてのオールドプルトニーに織り込まれた海とウイスキーのつながりを祝福するのが目的でした」
原酒を選定する課程で、サラは蒸溜所の歴史や一貫した個性とも向き合うことになった。ウイスキーの熟成樽は、人間のように振る舞うこともあるとサラは言う。それぞれの樽に個性があり、その個性が時とともに変化していくからだ。
「プルトニーに入社して最初の任務のひとつが、200周年記念のために10年熟成の原酒だけで蒸溜所限定ボトルを開発することでした。それがうまくいったので、30年熟成と50年熟成のウイスキーを企画するチャンスも生まれました。まだインターナショナル・ビバレッジに入社したばかりなのに、最初から素晴らしい経験をさせてもらいました」
記念ボトルの原酒選定においては、蒸溜所の200年にわたる歴史を振り返り、さまざまな瞬間を称えるような樽を選りすぐった。象徴的な原酒を調和させ、オールドプルトニーのすべてを体現できるようなウイスキーをつくるのがサラの狙いだった。
「そもそもオールドプルトニーには、『北のマンサニージャ』というニックネームがありました。そこで今回のボトリングには、マンサニージャシェリー樽の熟成原酒をいくつか選んでいます。でもそれだけでは蒸溜所のスタイルを十分に表現できないので、ファーストフィルとリフィルのオロロソシェリー樽も1本ずつ追加しました。そうすることで全体がまろやかになり、プルトニーを完全に体現するような複雑さも表現できたのです。マンサニージャ樽が90%、オロロソ樽が10%という割合です」
船乗りが集う港町ウィックのウイスキーづくり
かつて19世紀のウィックは、ヨーロッパでも特に活気のある漁港だった。ニシン漁のシーズンには1,000隻以上の船が港を埋め尽くし、町では毎週500ガロンものウイスキーが消費されていたという。
このニシン景気を背景にして、1826年にジェームズ・ヘンダーソンがハダート通りにプルトニー蒸溜所を設立した。ウイスキーの歴史家として名高いアルフレッド・バーナードの著作に、次のような記述がある。
「ヘンダーソンは、内陸部(ハルカーク近郊のステムスター)にある小さな蒸溜所を30年近く運営していたが、ウィックでウイスキーへの需要が高まっていることを知って蒸溜所の設立を決意した。当時のウィックは陸路で辿り着けず、南部との交通手段は船に限られる。そんなウィックの海岸近くに、プルトニー蒸溜所を建設したのだ」
プルトニー蒸溜所は20世紀に入ってもヘンダーソン家が所有していたが、1920年になってダンディーのウイスキーブレンダーであるジェームズ・ワトソン&カンパニー社によって買収された。その5年後にはディスティラーズ・カンパニーが再買収したが、1930年にはプルトニー蒸溜所でのウイスキー生産を終了してしまう。
もともと海で働く男たちの飲酒習慣が問題視されたウィックでは、1922年5月に禁酒令が施行された。法令の効力は1947年5月まで続き、蒸溜所の苦境にも拍車をかけた。
この時期は世界大戦の影響もあって、スコットランドでも多くの蒸溜所が操業を停止した。そのままウイスキー生産の伝統が途絶えた地域も少なくない。だがプルトニー蒸溜所は、最終的に復活を果たす。バンフ在住の弁護士バーティことロバート・カミングが設備を買収し、1951年にスピリッツの生産を再開したのだ。
その4年後には、カナダの大手ハイラム・ウォーカーがカミングから蒸溜所を買収する。そして1958年から1959年にかけて大規模な再建計画に着手した。
その後プルトニー蒸溜所は、1961年にアライド・ブルワリーズの傘下となって操業を続けた。そして1995年に、蒸溜所とシングルモルトブランドはインバーハウス・ディスティラーズ(現在はインターナショナル・ビバレッジ・ホールディングスの一部門)に売却される。
インバーハウス・ディスティラーズ傘下となって2年後には、主力商品である「オールドプルトニー12年」が発売された。その後は「海のモルト」のイメージを押し出して、シングルモルト中心の生産拠点として広く知られるようになったのである。
(つづく)







