タスマニアの先駆者たち【第2回/全3回】
ラークからオーフレイムとサリヴァンズ・コーヴへ。人と人のつながりによって、飛躍の土台は築かれた。
文:ティス・クラバースティン
ブライアン・ポークが、タスマニア北西部にダーウィン蒸溜所を設立したのがきっかけとなり、最も有名なタスマニアンウイスキーの先駆者であるビルとリンのラーク夫妻が表舞台に登場する。だがビルによると、妻のリンは世間の注目をずっと避けてきたのだという。
「彼女は事業の中心なのですが、目立つのが嫌いなので、相応しい評価をまったく受けていないんです」
ある日のこと、妻のリンはビルの独り言を聞いた。「どうしてタスマニアで誰もウイスキーをつくっていないんだろう」とつぶやく夫に、「私たちでやってみる?」と提案したのはリンの方だった。
もちろん当時は蒸溜酒禁止法が施行されており、本格的な取り組みには高いハードルがあった。それでもビルは理解のある地元出身の国会議員に働きかけ、その議員がオーストラリアの首都キャンベラで担当大臣を動かす。彼らは協力して法律を改正し、リンとビルが小型の蒸溜器でも酒造免許を申請できるようにしてくれたのだ。ビルは当時を振り返る。
「あれは1992年のことです。税関職員が私たちの家を訪れ、タスマニアでは1839年以来となる蒸溜酒の酒造免許を発行してくれました。本当に胸が躍るような一日でした」
改正された法律は、ラークス夫妻が歩むべき道を切り開いた。それだけでなく、同様の野心をひそかに抱いていた他の人々も行動を起こし始めた。タスマニアのウイスキー業界は、特に初期の頃はとても狭い人間関係で成り立っていた。それぞれが異なる道筋を経て、ウイスキーづくりの夢にたどり着いたのだ。
タスマニアのウイスキー業界の有力者といえば、ラーク夫妻の他にパトリック・マグワイア(サリヴァンズ・コーヴ)とケイシー・オーフレイム(オーフレイム・ウイスキー)がいる。この4人の付き合いは、もう数十年に及ぶ。
オランダ系の血を引くケイシー・オーフレイムはノルウェー人の妻と結婚し、1980年代初頭からウイスキーの製造に興味を持ち始めた。本人がそのいきさつについて教えてくれた。
「ノルウェーで妻の叔父に会ったのがきっかけです。その人は地下室に自分で小さな蒸溜所を構えていました。スピリッツ蒸溜という概念そのものに魅了され、いつか自分もワールドクラスのウイスキーをつくってやろうと思うようになりました」
そしてケイシーは、ラークス家とビジネス上の付き合いがあった隣人を通じてビルと出会った。それは1980年代後半のことだったという。
「本当に偶然の出会いでした。まさに天の導きですね。あれ以来、私たちはずっと親友なんです」
子供が経済的に自立するまで、ケイシーはウイスキーづくりの計画を棚上げにしていた。しかし2005年になって、ついに自身の蒸溜所を立ち上げる。長年の夢を着実に達成するため、10年計画で事業を進めた。現在の経営者は娘のジェーン・ソーフォードだ。ジェーンは創業当初から父のウイスキーづくりを手伝い、夫のマークと一緒にオーフレイム家の遺産を受け継いでいる。
黎明期を支えた4社の絆
もう一人のパトリック・マグワイアは、ウイスキーづくりを本気で目指していたわけでもない。ビルとリンを通じて、自然とそうなったのだと本人は振り返る。そもそもビルとリンの夫妻は、パトリックが経営していたホテルの経営パートナーという間柄だった。しかしビルがタスマニアでウイスキーをつくるという考えを伝えたとき、パトリックはあまり乗り気ではなかったのだという。
「ビルのウイスキー事業に、すぐ賛成はできませんでした。『うーん、どうかな。これまでも君はいろいろ良いアイデアを出してきたけど、これはちょっと違うんじゃないかな』と言いました、ビルは私の意見に耳を貸さず、それが結局は幸いしたというわけです」
そんなパトリック自身も、次第にウイスキーづくりの世界に引き込まれていく。最初はラーク家の食卓でボトリングを手伝い、1990年代後半にはビルと一緒にタスマニア蒸溜所(当時のサリヴァンズ・コーヴの製造者)で専任の蒸溜士となった。
パトリックはそのままヘッドディスティラーに昇進し、破綻寸前の危機を乗り越えて事業を再建。最終的にサリヴァンズ・コーヴの責任者兼共同オーナーとなった。現在は、蒸溜所と独立系ボトラーを兼ねた自身の会社「マグワイア&カンパニー」を経営している。
ラーク蒸溜所、オーフレイム・ウイスキー、サリヴァンズ・コーヴは、2007年に設立されたタスマニアンウイスキー&スピリッツ協会の創設メンバーである。協会の創設に参画したもう1社は、ヘリヤーズ・ロードだった。ヘリヤーズ・ロードは協会でも重要な存在だ、地理的にもビジネス的な観点からも他の3社とは異色の存在だ。
ヘリヤーズ・ロードの親会社は、タスマニア北西海岸の農家が1957年に設立した酪農協同組合である。ラーク、オーフレイム、サリヴァンズ・コーヴが創業したホバートの町から車で4時間も離れた辺境の地で運営されている。酪農協同組合が新たな事業展開を模索し始めた1997年までに、故ブライアン・ポークとウイスキーづくりについて話しあう機会があった。それがヘリヤーズ・ロードの起源である。
ヘリヤーズ・ロードは、ほぼ社内で蒸溜所の設計を手掛けた。地元のエンジニアたちが、蒸溜所のすぐ近所で設備を製造したのである。そうやって完成したのが、横倒しにした巨大なドラム缶のような面白いマッシュタンだ。またウォッシュスチル(初溜釜)の容量は6万リットルで、ケイシー・オーフレイムが35平米の小屋に導入した蒸溜器の約40倍という大きさである。
ヘリヤーズ・ロード現CEOのデレク・チャージは、「創業者の独立心や頑固な性格を反映したような設備ですよ」と語る。
タスマニア北西部の気候は、島内の他地域と著しく異なる。雨影地帯に位置するホバートは、気温の変動が激しい。だがヘリヤーズ・ロードは南大洋に守られ、タスマニアの温帯雨林の近くに位置している。それだけじっくりと緩慢な熟成が可能になるのだ。
(つづく)






