タスマニアの先駆者たち【第1回/全3回】
オーストラリアのタスマニアで、世界に誇るウイスキー文化を育てた人々。その起源と道程をさかのぼる3回シリーズ。
文:ティス・クラバースティン
今から30年以上前、1990年代初頭のある日。タスマニア州ホバートの住宅街にあるラーク夫妻の自宅で、夜遅くに電話が鳴った。こんな時間に誰だろう。少し戸惑いながら、夫のビルが電話に出る。電話の向こうで、スコットランド方言の男性が話し始めた。
「ビルさんですね。グレンファークラスのジョン・グラントです。あなたがウイスキー製造の免許を取得されたとうかがいました。もしよろしければ、素晴らしいウイスキーをつくるお手伝いをさせていただけませんか?」

ラーク蒸溜所を創設したビル・ラークは、タスマニアンウイスキーのゴッドファーザー。創業当時にグレンファークラスのジョン・グラントから無償の学びを得たことで、後進の同業者と協働の精神を育んだ。メイン写真もビル・ラーク。
夜更けの電話で、しかも突然の申し出にも戸惑いを感じた。だがビルはすぐに落ち着きを取り戻してジョンに感謝し、「いったいどんな風の吹き回しで?」と動機を尋ねる。するとジョンは答えて言った。
「これからあなたの蒸溜所を訪れ、生まれて初めてウイスキーを味わう人もいることでしょう。そんな人たちの最初のウイスキー体験を素晴らしいものにしてあげたいのです。最初の出会いが感動的なら、その人が自分でウイスキーの世界を探求し続けるきっかけになるかもしれませんから」
その日の電話は、結局1時間以上にも及んだ。そして、この日にタスマニアンウイスキーの運命が始まったのだ。
ビル・ラークとリン・ラークの夫妻は、今やオーストラリアンウイスキーの「ゴッドファーザー」と「ゴッドマザー」だ。夫妻がウイスキー蒸溜への一歩を踏み出した最初期に、この一本の電話が決定的な影響をもたらしたのである。
当時のオーストラリアには、ウイスキー業界などほとんど存在しないに等しかった。だからこそジョン・グラントの電話は、その後の業界全体に「協働の精神」を築く一助となったのだとビルは言う。
「ウイスキーをつくり始めてから、ケイシー・オーフレイムをはじめとする新しい蒸溜家たちが訪ねてきました。そんな同志たちの訪問を受けるたび、ジョンの言葉を思い出していたんです。彼から学んだ助け合いの精神が、タスマニアだけでなく、オーストラリア全土へと受け継がれていきました」
環境に恵まれたウイスキー不毛の地
タスマニアの面積は、スコットランドとほぼ同じだ。だが地理的には地球の裏側にある。ほとんど世界の果てのような場所で、オーストラリア本土からもバス海峡を隔てて遠く離れている。その孤立した立地ゆえ、自給自足に根ざした土地でもある。幸運だったのは、ウイスキーづくりにとってほぼ完璧な気候に恵まれていたことだ。
だがビルとリンをはじめとする現代の先駆者たちがウイスキー産業を復活させるまで、ここタスマニアでは蒸溜酒の製造が約150年間にわたって途絶えていた。

オーフレイム・ウイスキーを創設したケイシー・オーフレイム。ウイスキーづくりに憧れていたところ、隣人を通してビル・ラークと知り合った。タスマニアンウイスキーの第一世代として、ウイスキー協会の設立にも尽力している。
かつてのタスマニアにおけるウイスキーづくりを知るには、1820〜1830年代にまで遡る必要がある。当時のタスマニア島は、「ヴァン・ディーメンズ・ランド」の名で知られる独立した植民地だった。
当時のタスマニア島では、わずか15年の間に8つの蒸溜所が開設と閉鎖を繰り返した時期もあった。この間に島内で蔓延した飲酒の習慣が問題視され、蒸溜酒製造への批判的な報告書が立法議会に提出されている。そして1839年1月に発効した「蒸溜酒禁止法」によって、植民地内での蒸溜が禁止となった。
この酒造禁止令は10年足らずで解除されたものの、影響はその後も長く続いた。オーストラリア連邦の基礎となる1901年制定の蒸溜酒製造法によって、スピリッツの蒸溜は正式に合法化されることになる。だが認められたのは大規模な製造だけで、各蒸溜所は容量2,700リットル以上のポットスチルを導入しなければならなかった。政府が本気で蒸溜酒の製造を規制したかったのかどうかは別として、間違いなくウイスキー業界の発展が阻害される要因になった。
それ以降は小規模な蒸溜酒製造が違法になったわけだが、1980年代後半になってタスマニアで新しい動きが始まった。複数の人々が、それぞれ別途に同じチャンスを嗅ぎつけていたのだ。
その一人である故ブライアン・ポークが、まずタスマニア北西部に蒸溜所を設立した。当初はダーウィン蒸溜所として知られていたが、後にフランクリン蒸溜所、スモール・コンサーンと名称を変え、現在はクレイドル・マウンテンの名で運営されている。
この蒸溜所が初期に名声を博したきっかけは、独立系ボトラーのケイデンヘッドに7本の樽を提供したことだ。最後の1本は、2021年に24年熟成のシングルカスク商品としてリリースされている。
(つづく)




