現在は島内で80軒の蒸溜所が稼働するタスマニア。第一世代の協働精神が、業界の大きな成長を後押しした。

文:ティス・クラバースティン

ここまでに紹介したタスマニアンウイスキーの先駆者たちは、ウイスキーづくりに最低限必要な条件を満たしていた。すなわち酒造免許、蒸溜器などの設備、そして挫けることのない信念だ。マニュアルのような指南書があったわけではない。タスマニアンウイスキーは実験と直感を重視し、この島の環境から得られる特性を積極的に取り入れながら生産していかなければならなかった。

たとえばビル・ラークは、ビールメーカーのカスケード・ブルワリーからウォッシュを調達し、製麦後にタスマニア産のピートを用いておこなう独自のピート燻製工程を開発した。オーストラリア産のポートワイン樽をクォーターカスクとして再利用するアイデアも面白い。この小型の樽はタスマニアンウイスキーの代名詞となり、後続の多くの生産者にも採用されてきた。

フランクリン種やプラネット種など、伝統的なビール用の大麦品種も使用してきた。当時はウイスキー用大麦を栽培している農家がなかったので、ビール用大麦以外の選択肢はなかった。だがウイスキー業界が大きく成長して、蒸溜所側の希望が通りやすくなった現在でも、あえて意図的にビール用の大麦品種を選んでいるのだという。

ビル・ラークは、ビール用大麦こそがタスマニアンウイスキー全体に貫かれる「黄金の糸」だと語っている。パトリック・マグワイアも次のように同意した。

ヘリヤーズ・ロードの設備は、地元のエンジニアが手掛けている。タスマニアのなかでも鄙びた土地で、独自性の高いウイスキーづくりに取り組んでいる。メイン写真はヘリヤーズ・ロードのビジターセンターからの眺め。

「最初は取引できる製麦業者がビール一辺倒だったので、入手可能なものをそのまま使うしかありません。でも結果として、それで十分だったんです。タスマニアンウイスキーには、ビール用大麦があっています。収率などは少し劣るかもしれませんが、あまり気になりません。風味や口当たりの方が大事ですから」

タスマニアンウイスキーに共通するアイデンティティは、ウイスキーそのものを超えて人々を結びつけていった。そもそも生産量がわずかで、市場の先行きも不透明な新興産業である。蒸溜所同士は、競合相手というよりも協力者としての関係を築いてきた。互いの知識を共有し、輸出市場を開拓するために島外へ出かけるときも行動を共にした。島を訪ねてくる人なら、誰にでも門戸を開いたのだとジェーン・ソーフォードは回想する。

「本当にたくさんの人が、父の質素な蒸溜小屋を見に来ました。その設備を見て、『これなら自分にもできそうだ』と思った人も多かったのです。もちろん父も、そんな見学者のみなさんに親身のアドバイスを与えました。そんな人間関係から、後進メーカーが次々と起業する大きな原動力が生まれたのだと思います」

ヘリヤーズ・ロード、ラーク、サリヴァンズ・コーヴ、オーフレイムは、今日に至るまで強固な絆を築いている。それがタスマニアンウイスキーの強さなのだとケイシー・オーフレイムは語る。

「私たち第一世代のメーカーは、互いに助け合ってきました。そして後から立ち上がった数多くの蒸溜所も支援してきました」

タスマニアのウイスキー業界が、独特な地域性を反映できたのは幸福な偶然だったのかもしれない。しかし黎明期から、かなりの期間にわたって地元タスマニアだけで完結する小さな業界でもあった。

飛躍の兆しが見え始めたのは2009年のことだ。ラーク蒸溜所が「カスクLD100」をワールド・ウイスキー・アワードに出品し、「ベスト・アザー・シングルモルト・ウイスキー(熟成年数非表示)」部門で受賞した。ビル・ラークは当時の興奮を振り返る。

「世界中の数多くのウイスキーと競いあいながら、ベスト・シングルモルトを受賞しました。それは私たちにとって本当に感動的な出来事であり、大きな転機となったのです」

この栄誉は、すぐサリヴァンズ・コーヴにも波及した。パトリック・マグワイアが蒸溜所に到着すると、朝からブロックを囲むように車が列をなしていたのだという。

「世界中から、注文が殺到しはじめました。サリヴァンズ・コーヴも一気に脚光を浴びることになりました。私のブランドだけでなく、おそらくタスマニアのウイスキー全体にとっても大きな出来事でした。他の蒸溜所も恩恵を受けたと聞いています。みんなで恩恵を分かちあえたのは、素晴らしいことでした」

輸出派と島内派の美しい共存

現在のタスマニアには、80軒以上のウイスキー蒸溜所がある。第一世代は、そろそろ事業を次世代に引き継ぎ始めている。オーフレイムのジェーン・ソーフォードは、2014年に父のケイシーが事業を売却した後、家業のブランドを取り戻すために何年もひっそりと闘い続けた。そして2020年に、やっとオーフレイムの名を取り戻した経緯がある。「決して諦めたことはありませんでした」とジェーンは言う。

サリヴァンズ・コーヴでの勤務を終えた後、パトリック・マグワイアは引退して表舞台から姿を消すこともできたはずだ。だがやはりこのウイスキー業界から離れられないと自覚するに至った。これまでに学んだ知見のすべてを活かして「マグワイア&カンパニー」を設立。将来を見据えて事業を拡大し、現在はみずから大麦の栽培も手掛けている。

「以前に犯した過ちは、すべて貴重な教訓です。どのような問題に注意すべきかわかっているので、今回はもっとうまくやれると感じています」

ビルとリンの娘であるクリスティ・ラーク・ブースは、オーストラリアのスピリッツ業界における重要人物となった。自身のキララ蒸溜所を設立し、オーストラリア女性蒸溜業者協会も立ち上げている。

ジェーン・ソーフォードは、父のケイシー・オーフレイムが売却した事業を買い戻し、夫のマーク・ソーフォードと一緒にオーフレイムを継いでいる。

ヘリヤーズ・ロードCEOのデレク・チャージは、タスマニアの蒸溜所を2つのタイプに分類している。規模の大小で分けるのではなく、島外への輸出に関心のある蒸溜所と、そうでない蒸溜所という分け方だ。島内で完結するタイプのメーカーは、オンライン販売や「セラー・ドア」(蒸溜所直売所)を通じて、消費者にウイスキーを直接販売している。

このようなウイスキーが手に入るのは、直接取引関係にある特定のバーや酒販店に限られる場合もあるのだとデレクは言う。

「この2つのグループは、効果的にお互いを支えあっています。輸出が目的ではない蒸溜所のウイスキーは、人々がバーで飲んだり、他の地域の店で買ったりすることで知られていきます。そんな出会からウイスキー目当てでタスマニアを訪れる人々が増え、州内の多くの蒸溜所を巡りながらつくり手の人たちと出会う。そんな体験こそが、計り知れない恩恵となるのです」

このような発展の仕方が、当初からの計画だったわけではない。先駆者たちが築き上げたのは、単なる産業ではなく、物事の進め方そのものだった。忍耐強く、互いに助けあい、その土地に根ざしたアプローチを続けていく。その結果、タスマニアのウイスキー産業は2300人もの雇用を支え、タスマニア州に3億オーストラリアドル以上の経済効果をもたらすまでになった。ラーク蒸溜所だけでも約80人を雇用している。ビル・ラークが、そんな30年余りの変化を振り返る。

「リンと私は、タスマニアンウイスキー誕生の瞬間に立ち会ったのです。私たちが自宅のキッチンでボトリングを始めたことが、現在の業界を作りました。それが巡りめぐって、今では若者たちの仕事を作っているんです。そんな軌跡を振り返るのは、本当に素晴らしい気分ですね」

だからこそ、ビル・ラークは仲間のウイスキーメーカーをライバルとして見ることなどできない。

「ラーク、サリヴァンズ・コーヴ、オーフレイム。誰かがタスマニアンウイスキーを買ってくれたら、私は銘柄に関わらず同じくらい嬉しい。基本的に、みんなにタッシー・ウイスキー(タスマニアンウイスキーの愛称)を飲んでほしいだけなんです」

いまから30年前、タスマニアンウイスキーを飲む人はほとんどいなかった。だが世界は、ようやく本物のトレンドに追いつき始めている。タスマニアの躍進は、まだまだ続くことになるだろう。