百年前のマッカラン【前半/全2回】
文:ヘザー・ストーガード
当時のスペイサイドには、数十軒もの蒸溜所が点在していた。地域でつくられるモルト原酒は、人気の高いブレンデッドウイスキーのキーモルトとして人気だった。ホテルでは釣りやハイキング目当ての観光客に地元の味を知ってもらおうと、宿泊客向けに「ピュアハイランド・モルトウイスキー」なるウイスキーをボトリングしていた。
そんなウイスキーの世界は、百年の時を経た現代と比べても、不思議なくらい変わっていないことに気付かされる。海外メディアで紹介されるウイスキーの姿も、1920年代初頭にはある種の美化された牧歌的風景が表現されていた。
なだらかな丘陵地帯で、蒸溜所は昼夜を問わず稼働している。地域に失業者は一人もおらず、居住者たちの絆は深く、ときどき魚釣りのために遠出したりする。そんな牧歌的でユートピアのような生活が描かれているのだ。
オーストラリアのあるジャーナリストは、1921年に次のような記事を残している。
「スペイ川に沿って旅をすれば、必ず立派な蒸溜所に出くわすことになるだろう。このような蒸溜所では、大英帝国の酒販店で売られている高額なウイスキーが生産されているのだ。マッカラン、グレンフィディック、グレンファークラス、ザ・グレンリベットなどがその一例である」
しかし1920年代も半ばに差し掛かると、世界の混乱が厳しい現実を突きつけてくる。蒸溜所は操業を停止し、夏季の休業期間が長くなり、ウイスキーの消費量も減少し始めた。カナダ最大の新聞では、スコッチ産業の存続に疑問を呈し、在庫過剰の責任を消費者に押し付けるような記事もあった。当時の若者たちが、親世代ほどウイスキーを飲んでいないから産業が停滞していると論じたのだ。
ヘラルド紙には、オスロの広告代理店が依頼した記事広告も掲載されている。北欧諸国でのウイスキー需要を見込み、新しい消費者層を獲得しようと躍起になっていたようだ。供給過剰の状態から脱出するため、新しい市場を開拓するのはいつの時代でも理にかなっている。
だがその後、1926年には英国で大規模なゼネストが労働者の不満を爆発させる。英国全土で、庶民の生活が揺らいでいた。当時の石炭不足は極めて深刻で、多くの蒸溜所がやむなく石炭の在庫を地方自治体に引き渡した。蒸気機関車の運行もままならず、注文済みの商品さえも配送できなくなった。ウイスキー業界は、好不況の波に対して脆弱だ。それまでの楽園のような光景は崩れ去ったのだ。
スペイサイドにあるウイスキー蒸溜所のほとんどは、1926年の蒸溜シーズンが始まっても例年通りに稼働できなかった。そのまま夏が過ぎ、11月に入っても生産を続けているのはモートラック蒸溜所だけという記事が残っている。多くのジャーナリストが「ダフタウンの蒸溜業者」や「ハイランドの蒸溜所長」から匿名のコメントを聞き出して記事に引用している。
雇用の大半をウイスキー産業に依存していたスコットランド各地の地域社会は、このウイスキー不況によって大きな影響を受けてしまった。農家、樽職人、蒸溜業者など直接的な利害関係者は言うに及ばず、貨物列車の乗務員、近隣の港湾で働く海運関係者などにも不況の波は広がった。さらには全国のパブ経営者、酒問屋、国外の業者も苦汁を飲んだ。
暗黒時代に樽詰めされた運命のウイスキー
伝説的なウイスキー「ザ・マッカラン1926」の原酒は、そんな年に蒸溜されたことになる。オークション界で何度も最高価格記録を更新したウイスキーが、1926年の混乱の中で生まれたという事実は少し信じがたい。ほとんどあり得ないほどの成功作といっていいだろう。だがもう少し深く掘り下げてみれば、魔法のような成功には相応の理由もある。
当時のマッカラン蒸溜所は、設備を最高水準に引き上げたばかりだった。「ザ・マッカラン1926」の原酒は、新築のモルト貯蔵庫とキルンを導入した直後に蒸溜されている。蒸溜所と山間の泉をつなぐ革新的な配管システムから、良質な仕込み水も供給されはじめていた。そして収穫された地元産の大麦も、たまたま前後の年と比較しても最高の出来だったのだという。
この良質な大麦によるスピリッツ品質の向上は、スコットランドの農家にとっても朗報だった。ちょうどデンマークから輸入される穀物が増加している頃で、マスコミが「スコッチウイスキーの原料はほとんどが輸入品で、スコットランド産の原料は水だけ」という批判を展開していたからだ。
マッカラン蒸溜所は、貯蔵庫の環境も改善していた。「ザ・マッカラン1926」としてボトリングされた「カスク236」は、1924年、1929年、1931年に増設された新しい貯蔵庫に移されて時を重ねたはずだ。
熟成期間中にも、マッカランはブランドとして変貌を遂げ始める。アルフレッド・バーナードが書いたウイスキー巡礼記によると、1880年代のマッカランは脚注でわずかに言及される程度の知名度だった。それが1926年には、世界で最も有名なシングルモルトブランドにまで人気を高めているのだ。
また1920年代には、マッカラン蒸溜所の経営にも変化が訪れていた。この頃から、「ネティ」ことジャネット・ハービンソンが夫から蒸溜所を相続している。ネティは、戦間期のスコットランドで蒸溜所の経営に関わった唯一の女性だった。
事業を家族の手元に残そうと決めていたネティは、当時の困難な状況の中でも複数の買収提案を断っている。それだけでなく、同時期に新たな市場開拓が進められていたのだから相当な手腕といっていいだろう。
不況にあえぐ英国市場への依存から抜け出し、マッカランはキプロス、南アフリカ、ジャマイカ、パレスチナ、フランス、ベルギーといった地域に少量ずつウイスキーを出荷しはじめていた。そして1930年までには、霧煙る800万人のロンドン市民に向けた大胆なマーケティングを展開するようになった。ロンドンのバス切符の裏面に、蒸溜所のロゴを掲載させたのだ。
(つづく)







