マンハッタン探検
ふたりのバー愛好家がニューヨークを象徴するこの地で、一流のカクテルを探しに出かける
食べ物と飲み物のなかでもごくわずかなものが、香りと味と質感と見た目をあわせた感覚の中に、ある街のすべて(その雰囲気とエネルギー、その本質と個性)を冠するという「名誉」と「重荷」を併せ持つ。
最初に挙げることができるのは、ハンバーガーのような、わかりきっていて、栄養があって確固としたもの。次に北京ダックがある。パリッとして独特なもの。そして、ヨークシャープディング。私にとっては心が安らぐ食べ物で、これを食べると故郷に帰った気分になれる。
そして、カクテルの“マンハッタン”がある。これはライウイスキーとベルモットを混ぜてビターズで香りをつけたものである。
それは1874年のことであり、社交界の花だったウィンストン・チャーチルの母親のジェネット・ジェローム(愛称ジェニー)が洒落たマンハッタン・クラブで新市長の当選を祝うためにホストを務めていた。彼女は特別誂えの飲み物を要求し、この調和的に融合したカクテルがバーテンダーによって編み出れたのだ。
しかし今日まで、少なくともマンハッタンの郊外で育った私にとって、“マンハッタン”は洗練されたダイニングルームから埃だらけの路地にいたるまで、この街の慌ただしい繁栄、スタイル、高級な力強さをとらえることに成功している。
どんな違いが有るのかと、私はマンハッタン中の“マンハッタン”を飲む為に出発した。しかしながら、この目標はただちに変更された。というか、さらに拡大されたという方が良いだろう。
ブルックリンで数杯飲むことも含まれるようになったからだ。理屈の上ではその結果として、この伝統的なカクテルを2、3種類のバリエーションで飲む事になった。カクテルとして登場して以来、1910年前半以降は自分のバーのプライドをかけたカクテルをつくりたいバーテンダーによって好きなように作られてきた。
これはひとりで挑むべき仕事ではない。この種の取材を供にする相手はトニヤ・「ルネル」・スマザーズをおいて他にはいない。
ルネルがぶらりと歩いて入ったのは、その晩のバー行脚の出発地点となった洒落たブルックリン・ハイツにあるジャック・ザ・ホースである。
彼女は特大の木製のボタンで留めたツィードの長いコートを着ていた。ブドウの木のような植物の刺青が彼女の片方の耳の後ろを這っているように見える。
彼女はバーの椅子に腰をかけ、そこでバーテンダーをしていたマックスウェル・ブリッテンに挨拶した。ルネルはニューヨークが持つ密接なカクテルコミュニティーの付き合いで彼を知っていた。髪を後ろになでつけて、床まで届く白いエプロンをかけ、木造のバーに立っている彼の外見は科学者のようだった。そこにはドロッパーやダッシャーがついたガラス瓶がたくさん散らばっていて、それぞれにアルコールやビターズ、フレッシュジュースが入っていた。彼に私たちの目的を話すと、“ブルックリン・ハイツ”を勧めてくれた。彼が考案したこの飲み物は、由来を1919年代に遡るブルックリンというカクテルのバリエーションで、その“ブルックリン”自体もまた“マンハッタン”のバリエーションだった。
ブルックリンは作るのが大変である。レシピにあるアメール・ピコンというフランスのビターオレンジリキュールがもはや米国に輸入されていないからである。したがって、マックスはアドリブでつくる。元来はライとスウィートベルモットをベースにして最後に少量のアメール・ピコンとマラスキーノを加える。マックスはアメール・ピコンを使う代わりにルクサルド・アマーロ・アバノを使う。これには、シナモン、クローブ、コショウがかなりの比率で入っている。これらは、普通のマラスキーノには入っていない香辛料だ。
彼はそれぞれの材料をジガーで測って、レーガンズ・オレンジビターとカンパリを数振りいれた。さあ新しいカクテルの出来上がりだ。彼はこのふたつをよく混ぜて、ぎっしりと氷をいれて巧みにステアする。手首の使い方次第で飲み物の温度が変わる。彼の着ているものから想像される科学者風に、小さい温度計をミキシンググラスに差し込む。
ブルックリン・ハイツは素早く古典的カクテルを作るといった感じがある。マンハッタンの影響があるが、ルクサルドの強いスパイスを加えることで独特のキャラクターをもち、いうなれば、オリジナルと違うものになる。マックスは、アペリティフ(食前酒)というよりもディジェスティフ(食後酒)かもしれないと言ったが、私たちはどちらも夕食を食べていなかったことを考えて、フードメニューから季節料理をいくつか注文した。
マックスは話を続け、いかにこの界隈で生まれたカクテルの傾向が爆発的に広まったかについて述べた。最近5年間では、(シャトルーズをいれた)グリーンポイント、(プント・エ・イメスとマラスキーノをいれた)レッド・ホック、(チナールをいれた)リトル・イタリアだ。
ルネルは別の1杯の時だと考えた。それは、ウイスキー・バレル・ビターズを入れたドライ・マンハッタン。ニューヨーク州北部にある小規模会社、フィー・ブラザーズのスモールバッチ・ビターズのことだ。
「私はウェットなウイスキーが好きです。ドライなマンハッタンを注文することは決してありません。そんなものを注文する人はもはや誰もこの街にはいないかもしれない。でも古いカクテルブックには必ず載っていますよ」
マックスはドライ・ベルモットを持ってきて、彼女にひとひねりしても良いか訊いた。彼女はうなずく。彼はレモンピールをグラスの周りに手際よく擦りつけて、カウンター越しにキラキラと輝く飲み物を渡した。
私はドライ・マンハッタンを飲んだのが随分前だったことに気づいて、同じ物を頼んだが、それは啓示ともいうべき発見だった。同量のスウィート・ベルモットとドライ・ベルモットを混ぜた申し分ないマンハッタンに慣れていたにもかかわらず、これはもっとすっきり、さっぱりした飲み物だった。
そろそろ街に繰り出す時間だ。私たちはビルズ・ゲイ・ナインティーズに行くために地下鉄でミッドタウンに向かった。そこは、禁酒法時代にも営業をしていて、事実密売所として知られていた。
当時、このバーはリキュールだらけの1890年代を懐かしむ聖地として存在していた。今は、かつて54番街を遮っていた壁は窓になり、常連客の中折れ帽は野球帽に代わっている。店の壁には、ボクサーや野球選手など昔の伝説的なスポーツ選手の写真や、昔のショーのポスター、とくにジーグフィールド・フォリーズ製作の作品のものが並んでいる。(1924年にバーをオープンしたビル・ハーディーがジーグフィールドに出演していた女性と結婚したからである)。
濃い色の羽目板が張ってあるバーは、決して古臭くはない。雰囲気は郷愁で満ち溢れ、一晩中映画音楽と新鮮味のないラグタイムを弾いている、気取ったピアノ奏者が目立っていた。 この光景と音楽は過ぎ去った時代をありありと思い出させてくれる。
貫禄のあるバーテンダーが(「フランス風の発音で」)ジェラールと自己紹介して、ルネルのリクエストであるマンハッタンをつくり始める。カナディアンクラブとスウィート・ベルモットを適当に注ぐ。手元にはビターズはない。ジェラールは何か他のことを考えているのだろうか? それから彼は手際よくウイスキーサワーをつくった。それはどぎまぎするような黄色の色合いで、私の方へ差し出される。「どうぞ、お気に召しますよ」と彼は勧める。
この夜の3つ目のバーを目指して急いで出て、タクシーに乗り込んでチャイナタウンへ行く。バワリーからブルーム・ストリートに入ると、そこでは歩道にスレート製の立て看板があり、「ブルームズ・ランドルフ」と曲がった字で手書きがしてある。
それは、この暗い道に営業している店があることを示している唯一の看板だ。
ランドルフは2008年の開店で、すぐにニューヨークのエリート・バーテンダーの間で有名になった。広々として、がらんとした倉庫のような所だが、何十年もそこにあったように見える。
ゆったりとした木製のバーは、ハイヒールとこぼれた飲み物を見続けてきたように見え、パンクロックを象徴する物が散らばっている。それにもかかわらず、根本的には一流の礼儀正しさがある。バーテンダーはベストを着ていて、木製の棚に並ぶシェイカーとストーナーとスプーンは磨きたてで光っている。ジェイソン・リトレルはただひとり、制服ではなくだぶだぶのフード付きのスウェットシャツを着ていて、今晩のニューヨーク探検を締めくくるにはぴったりの人物である。「喉が渇いているかな? 私がなんとかしましょう」と言って私たちを迎えてくれるからだけではない。彼は、気の利いたことを即座に言うときも、完璧なマンハッタンをステアするときのように真剣だった。
彼は、私たちに飲み物を渡す。仰々しさと厳かさをわずかながらにも感じるのは、この名前すらない飲み物を飲んだことがないからか。リッテンハウス2に対して、アンティカ・フォーミュラのベルモット1、そして、アンゴスチュラとレーガンズ・オレンジとペイショーの3種類のビターズを振り入れたものである。それをアーティチョークからつくられたイタリアのリキュール「チナール」でリンスしたグラスの氷の上に注ぐ。まるでハーブそのもののようなよい香りがする。
ジェイソンは、飲み物に名前がつくには時間がかり、その飲み物が歴史の中に位置を占めるときになってようやく必要になるものだと答える。このカクテルがこの街の名を冠するのはまだ先の話だ。