ハイランドの魔術師 グレンモーレンジィ【前編】
シングルモルトの革新が、ウイスキー業界を賑わせている。最前線で旗を振るのは、グレンモーレンジィ。前・後編にわたってリポートする。
文:ドミニク・ロスクロウ
昨年の秋、グレンモーレンジィ関係者は目の回るような忙しさだったことだろう。最高級クリスタルに当世一流の写真家たちのオリジナル作品をあしらった、1千万円を超える高額ウイスキー。ロンドンやニューヨークのオークションにおける記録破りの活躍。世界有数の高級ホテルで発売記念パーティーを催し、ラスベガスや台北で派手なショーを敢行した。新製品が発売されるたびにネット上でブロガーたちの評価が飛び交い、まだリリース前の製品に関する噂がいつも追いかけっこをしていた。
あまりにも猛烈なスピード。それはウイスキーをとりまく時間の流れからは、遥かに遠く離れた事象のようだった。ウイスキーの時間とは、グランピアン山脈をトレッキングした後にクレイゲラヒ村で静かに味わう1杯のウイスキーのようなものであるべきだろう。あるいは、イースターエルキーハウス近くのスペイ川で、鮭釣りをする癒しの時間。そしてスコットランド北東部、タインの町のまどろむような海岸。
巨大高級商社モエヘネシー・ルイヴィトン(LVMH)の経営陣がある決定を下した日、私はそのテインの海岸にいた。海辺を歩きながら、グレンモーレンジィ蒸溜所の方角を眺める。ここにいる限り、ロンドンもニューヨークも台北も別世界である。
この静けさと美しさを満喫するほど、自問せずにはいられない。ウイスキーメーカーたちは策を見失っているのか。マーケティング担当者は、シングルモルトウイスキーをゴテゴテに飾り立てた子どもだましのサーカスに堕落させてしまったのか?
そんな思いを抱きながら、グレンモーレンジィの蒸溜責任者であるビル・ラムズデンと会うたびに私は安堵する。それがサヴォイホテルであろうが、パリのテイスティングイベントであろうが、どんな場所であっても彼の言葉を聞くと「ウイスキーは大丈夫だ」と実感することができるのだ。産業の中心にいる人々の情熱と愛情は、決してウイスキーの堕落を許さないのである。
新興市場とのジレンマ
グレンモーレンジィは、このような込み入った問題を考えるのにぴったりのブランドだ。
近年、この蒸溜所の扱いは難しかった。すなわち、まずは世界で最も有名で、最も愛されているモルトウイスキーのひとつを生産しているという横顔がある。個性豊かで、品質も申し分なく、パッケージも良い。しかしその一方で、グレンモーレンジィはウイスキーの幅広い可能性を模索し、しばしば新しい方向へと舵を切る先駆者になってきた。
その姿勢を批判する者もいた。「万人を満足させようとするあまり、とりとめのない日用品に成り下がっているのではないか」と。ウイスキー界のステラ・アルトワ(ベルギー産のピルスナービール)という例えもあった。あるときは品質への自信をうかがわせる高額なボトルを発売し、あるときは山積みのボトルを安価で売りさばく。挙げ句の果てに、ここ数年はLVMHが出口戦略を模索中で、突然売却を発表するのではないか、その売り先はディアジオではないか、などという噂がつきまとった。
高級品のマーケティング部隊が、ウイスキーを魂の抜けた凡百の日用品にしてしまうのではないか。蒸溜所は策を見失っているのではないかという問いかけに、ビル・ラムズデンは正面から答える。
「私の考え方はシンプルです。ウイスキーは嘘をつきません。蒸溜所がしっかりと忠実に伝統を守り、強固なハウススタイルを守るのはとても重要なこと。それを実践している製品が、オリジナルと18年です」
しかしマーケティング部が、今や新興市場を対象にした新しいスタイルを視野に入れていることは確かである。
「ロシアや中国の市場に挑戦することがあっても、販売量でみれば圧倒的にオリジナルと18年の方が多く、ロシアや中国を含むどんな市場でも手に入る。私は職業柄、自分でつくっているウイスキーなら飲みたいものを何でも自由に口にできるので、その気になればグレンモーレンジィシグネットの風呂にだって浸かれるでしょう。でもグレンモーレンジィが何であるかを再確認するために、いつもオリジナルに戻ってきます。これはいつでも時を選ばないオールラウンドのモルトウイスキーですから」