ワイルドターキーと父子の絆
バーボンと馬の他には何もない。自らの故郷をそう語るエディー・ラッセルが、偉大なる父ジミー・ラッセルと共に来日した。(文:ニコラス・コルディコット、写真:ウィル・ロブ)
バーボンをつくるために生まれた男。そんな表現がぴったりのエディー・ラッセルだが、当人はそう思っていないらしい。「若い頃は、大学を出て田舎を抜け出そうと思っていました。でもある夏の日、家でゴロゴロしていると、母が父に向かって『この子に仕事を与えて、家から追い出してくれ』と頼んだのです。
アソシエートディスティラーとなった現在も、エディーは「貯蔵部長」と呼ばれるのを好む。若い頃から樽を運び、草刈りに励み、その後でメンテナンス、ボトリング、蒸溜、熟成と、地道な仕事を選んで生きてきた。「すべての工程に関わることが、自分の糧になった。マスターディスティラーはそうあるべきでしょう。正しく貯蔵し、樽を選び、ボトルに詰め、素敵なパッケージで消費者に届ける。そこまでが自分の仕事だと思っていたのですが、その先にもマーケティングという仕事があることを知って父と出歩いています」。
「父と一緒に出歩いた最初の頃、帰宅して母に言ったものでした。『父さんはバーボン界のマイケル・ジョーダンなんだね!』と。先々でワイルドターキーを熱烈に愛する人たちに会うのは感激でした」。
ここ横浜妙蓮寺の「ケーズバー」も、そのような忠誠で溢れている場所だ。親子は棚に並んだワイルドターキーのボトル群をざっと眺め、それぞれワイルドターキー8年101プルーフをオンザロックで注文する。エディーが「これさえあれば充分」と言えば、ジミーが「お前のスタンダードだな。1980年代まではこれしかなかったんだが」と応じて昔を振り返る。
その80年代以降、ワイルドターキーは少しだけ拡大路線に転じた。10年ものの原酒をオロロソ樽でフィニッシュした「シェリーシグネチャー」について訊ねると、ジミーは顔をしかめ、エディーは渋々語り出す。「あの商品のせいで、大切なウイスキーを台無しにしました。マーケティングの人たちの勧めで、古いシェリー樽を買って飛び切り上等なバーボンを入れたのですが、30日後、ひどい匂いがする代物になりまして」。
受け継がれるスタイル
エディーはウイスキーづくりの技術を論じているときが一番楽しそうだ。蒸溜所の操業を日々見守っているので、知らないことなどほとんどない。「樽の数は?——467,000本」。「最高の樽はどこにある?——B貯蔵庫の4階」といった具合である。しかしこんな実数を記憶するのも少々難しくなってきている。2009年にカンパリグループが蒸溜所を買収し、5,000万ドルを投資して年間1,000万ガロンに生産量を増やす大規模改修をおこなったのだ。
だからといって、新しいスタイルが乱立するとは思えない。最新設備を手にしても、ワイルドターキーのつくり方に変わりはないと親子は断言する。相変わらずたくさんのライ麦と大麦を使い、トウモロコシは少なめで蒸溜するだろうと。今まで通り55秒間の焼き付けで「アリゲーター」とあだ名される究極のチャーを樽に施すだろうと。独自のイースト菌を培養し、同じ石灰質の水を使うだろうと。
ジミーが一貫して甘味の強い8年を愛しているのに対し、エディーはややスパイシーな14年を好むようになってきた。だがこの息子は、いずれマスターディスティラーとなる時にもワイルドターキーの原則をいじくり回したりはしないと誓いを立てる。
「我々のレシピはただひとつ。若い人向けに度数の低いボトルを用意するかもしれませんが、工程は変えずにジミー・ラッセル流のウイスキーをつくり続けます。父が先駆者として切り開いた道を、いつもきれいに掃除しておくのが僕の仕事ですから」。