マルスは生きている!【全2回/前半】
2010年、操業を再開した本坊酒造 信州マルス蒸溜所にデイヴ・ブルームが訪れた。
太陽がパゴダ屋根をギラギラと照りつける頃、信州マルス蒸溜所に到着した。日は明るいにも関わらず、空気のひんやりとした冷たさは、びっしりと緑のビロードに覆われている山々に深く抱かれたこの蒸溜所が、日本アルプスの麓標高800mの地に位置することを教えてくれる。
このマルスにまつわる謎…ウイスキーをつくり始めたのはいつか? 一体全体、なぜ、マルスと呼ばれるのか? ありがたいことにすべての疑問には、笑みを絶やさない本坊酒造常務取締役の谷口さんが答えてくれた。
谷口さんは間違いなく、マルスの真実を、そしてそのやや複雑に入り組んだ歴史について語る最適の人物である。彼は、この蒸溜所のディスティラーであり、また、本坊酒造が一時的に取り組んだ鹿児島のウイスキー蒸溜所でもディスティラーをしていたからである。
本坊酒造は1949年に鹿児島でウイスキー製造免許許可を取得したが、11年間は既存の製造者が生産したモルトとグレーンをブレンドしていただけだった。しかし、1960年に山梨に蒸溜所を構え、ウイスキー生産を開始した。
「その設計・指導者が岩井喜一郎氏でした」と谷口さんは岩井氏についての驚くべきストーリーを明かしてくれた。岩井氏はジャパニーズ・ウイスキーの始祖のひとりと言える人物である。竹鶴政孝氏の最初の上司として、この若き「日本初のウイスキー技術者」がスコットランドから持ち帰った実習ノートをずっと持っていたのだった。
「岩井氏が山梨で蒸溜顧問に就任したとき、彼は竹鶴氏の方式を採用しました」と谷口さんは述べる。「それはヘビーでスモーキーなウイスキーでした」。岩井氏が竹鶴氏に一足遅れて手がけたウイスキーの冒険は9年間続き、その後この山梨蒸溜所は閉鎖され、ワイン醸造所となった。「当時はウイスキーがブームになる前で、販売が難しかったのです。やむを得ず閉鎖しました」と谷口さんは語る。
残念ながら、本坊酒造のタイミングはほんの少しずれていたのだった。
しかし、本坊酒造はウイスキーづくりを諦めなかった。「1981年、会社は2回目の挑戦を決断しました。その頃には日本のウイスキーも有名になりつつあったのです。しかし、その時旧山梨蒸溜所ではワインを製造していたので、他にウイスキー専用施設の敷地を探した末、鹿児島で生産を開始しました。鹿児島が第2のマルス蒸溜所だったのです」
一風変わった名前のことを聞くのにちょうど良い時のようだ。彼は笑う。「私たちは『寶星(たからぼし)』という焼酎のブランドを持っていまして。お客さんたちに新しい洋酒のブランド用に別の名前を考えてくれるよう頼んでみたところ、誰かが『マルス』(火星)はどうかと言い、それに決まりました」
彼は鹿児島で使用していたとても小さい銅製のポットスティルの写真を取り出した。「ええ、そうなんです」と大笑いする。「私たちは日本でマイクロディスティラリーを所有していたというわけです! とても変わっていましたよ。マッシュタンを手作業で空にしなければならず、ウォッシュバックは琺瑯タンクでした」
それで、そのウイスキーはどうだったのだろう?「かなりヘビーでスモーキーな、岩井スタイルのウイスキーでしたよ」
谷口さんは1984年まで鹿児島でウイスキーをつくった。その年鹿児島の蒸溜所は閉鎖されて、ウイスキー生産は新しく信州に設立した第3の蒸溜所に移すことになった。では、鹿児島で蒸溜されたウイスキーはどうなったのだろう?「今ではすべて売り切れました。最後の5つのカスクをヴァッティングしてザ・モルト・オブ・カゴシマとして売り出しました」
後半へつづく