Lost Distilleries―アバディーン
アバディーンには今、蒸溜所は存在しない
Report:ガヴィン・D・スミス
スコットランド第3の都市アバディーン。この街には決して短いとはいえないスコッチ・ウイスキーの伝統がある。蒸溜所はもちろん、その名をよく知られたブレンドメーカーもあった。
アバディーンのブレンドメーカーには、ジェームズ・カトー社、ゴードン・グラハム社がある。後者は、ブラックボトル・ブレンドを世に送り出したことで知られ、現在はバーン・スチュアート蒸溜所の傘下にある。そして、何よりも有名なのがシーバスブラザーズだ。ペルノ・リカールが所有するシーバスは、その起源を1801年に遡る。当初はアバディーンの生鮮食品店だった。
蒸溜所について話そう。1823年に施行された税法のおかげで相当数の蒸溜所が誕生し、それにより適法に蒸溜所が利益をあげられるようになった。が、その多くの寿命は長くはなかった。結果、1855年のアバディーンの住所録には、わずか5つのウイスキー会社しか掲載されていない。ジョン・ベグ、ヘンリー・オッグ社(ストラスディー蒸溜所)、リード・スミス社、ブラウン・ファークアー社、ウィリアム・ブラック社(デヴァナー蒸溜所)の5つだ。
アルフレッド・バーナードが1880年代半ばにアバディーンを訪れた際、国内でも美しい街のひとつとして記述している。その時点で、稼働中の蒸溜所は上述の5つのうちのふたつだけだった。もうひとつは1856年創業のボン・アコードである。
ボン・アコードは、ハードゲートという街で産声をあげた。誕生する以前、その敷地にはユニオン・グレンという蒸溜所があったが、1853年に仮差し押さえに遭う。その後隣接していた18世紀操業のブルワリーが取得したが、翌年の1854年に営業を停止した。結果、ボン・アコードはユニオン・グレンの設備を利用することができたため、成長を遂げることができた。事実、バーナードは「スコットランド最大のハイランドモルト蒸溜所のひとつ」と書いている。年間生産量は30万ガロンを誇り、コック・オ・ザ・ノースという名のシングルモルトをボトリングしていた。すべて輸出向けであったことも興味深い。
このシリーズで紹介しているその他多くの蒸溜所の例に漏れず、ボン・アコードも1885年に火災に遭い、大規模修繕が必要となった。オーナーにとってこの火災の影響は相当に大きかったものと思われる。1896年、ダルユーイン・タリスカー蒸溜所への身売りを決意し、ボン・アコードはノース・オブ・スコットランド蒸溜所へその名を変えられることとなる。
1904年9月、再び火災が襲う。80万ガロンのスピリッツが消失し、損害額は10万ポンドを超えたといわれる。記録によれば、その後ウイスキーをつくることはなかったという。閉鎖年は、1910年という人もいれば、1913年という人もいる。
デヴァナー蒸溜所の誕生はボン・アコード蒸溜所よりも早く、デヴァナー・ブルワリーが1837年に自社の敷地内に増設する形で開業した。バーナードの記述には、「デヴァナーは美しいディー川の河畔に位置し、北海への合流地点から2マイルと離れていない。アバディーンからもわずか1マイル。蒸溜所は主に花崗岩で建築され、ディー川からは素敵な散歩道で隔てられている。その小道は最近造られたばかりで、行政の負担は95万ポンドだった」とある。
バーナードが訪れたとき、デヴァナーを所有していたのはウィリアム・ブラック社だった。蒸溜所を1852年に買収し、1910年に操業を中止した。バーナードによれば、デヴァナーの年間生産量は22万ガロン。ボン・アコードと同様、相当の生産量を誇っていた。今日、建物の大部分はそのままに残っている。ダンディー、アバディーン間の車窓からもはっきりと見ることができる。
20世紀まで生き延びたアバディーン第3の蒸溜所、それは3つの中で最古で最小、そして最も忍耐強く時代を生き延びた。ストラスディーである。遡ること1821年にヘンリー・オッグ社がオーナーを務めるフェリーヒル・ブルワリーによって設立され、1895年まで家族経営により存続した。
1895年から1915年までは地元の企業家デービッド・ウォーカーが所有し、その後、ストラスティー・ディスティラリー社として法人化された。5年後、ロバートソン社により買収され、さらにグラスゴーのトレイン・アンド・マッキンタイア(T&M)社に買い取られた。T&Mは次いで1930年代、ナショナル・ディスティラーズ・オブ・アメリカの所有するところとなる。
ストラスディーは第二次世界大戦中沈黙を続け、その後稼動することはなかった。敷地もやがて一掃され、再開発された。バーナードは、「ハイランドモルト。年間生産量はプルーフ・ガロンで4万5千から5万5千。おもにリース、ロンドン、リバプールへ卸されている」と記述している。