Lost Distilleries―カレドニアン
Report:ガヴィン・D・スミス
スコットランドの首都エディンバラは18世紀終盤以来、約10の蒸溜所があった場所だ。オールドリーキーのウイスキーづくりの伝統は今日でもウィートフィールド・ロードにあるノースブリティッシュグレーン蒸溜所に引き継がれている。
しかし1988年までは、エディンバラはカレドニアン蒸溜所という大きくて古いグレーン蒸溜所を誇りにしていた。
「ザ・キャリー」の名で知られていたこの蒸溜所は1855年にグレアム・メンジース社によって建てられた。同社はエディンバラのリース川岸のサンブリー蒸溜所も所有していた。
その頃、スコットランドではグレーンウイスキーの生産量が爆発的に増加し、1851年の420万ガロンからそのわずか6年後には750万ガロンに跳ね上がった。メンジース社はこのブームに乗ろうとして市の中心街の西側に大きな新しい蒸溜所を建設した。最初はエディンバラ蒸溜所として知られ、まもなくカレドニアンに改称されたこの蒸溜所には、グレーンウイスキー生産用の大きなコフィースティルが設置されていた。
この場所に蒸溜所が建てられたのは近くのユニオン運河からの水が入手可能なことが大きな理由だったがメンジース社は別の輸送方法、つまり鉄道も念頭に置いていた。
カレドニアンは、ほぼ間違いなく急速に発達していた鉄道網を利用できる場所に作られたスコットランドの最初の蒸溜所で、近くを走るカレドニアン鉄道とノース・ブリテッシュ鉄道らの支線がこの新しい蒸溜所に引き込まれていた。
他の6つの蒸溜所が1877年に共同でザ・ディスティラーズ・カンパニー(DCL)の設立を決定した際、メンジース社はこの新会社と正式な契約を締結したが、当初は独自の操業を続けていた。
その後1884年にメンジース社とDCLが合併し、カレドニアンはそれ以降、事業を閉鎖するまでDCLの組織内に留まった。
そして1966年からはDCLの子会社スコティッシュ・グレーン・ディスティラーの傘下で事業を行うようになった。
基本的にカレドニアンは大規模なグレーン蒸溜所だったが、1867年に同社のコフィースティルの他にデービッド・ブレムナーがその1869年の著書『インダストリー・オブ・スコットランド』に記したように、「アイリッシュとして知られるウイスキーに対する需要増に対応」するため、グレーンのマッシュと一緒に使用される大型のポットスティル2基が追加された。
これは1860年代にスコットランドの好景気で生まれたマニフォールド建設事業で働くために移住してきたアイルランド人が好む酒類の生産増に向けた全国的な傾向だった。
ビクトリア王朝の現代性と効率の良さの熱心な研究家だったアルフレッド・バーナードは「ザ・キャリー」を1886年に訪れ、そこで見たものに大きな感銘を受けた。
カレドニアンは年間約200万ガロンの生産量を誇り、規模ではグラスゴーのポートダンダス蒸溜所に次いで2番目となっていた。
しかし、その1世紀後、スコッチ・ウイスキーの世界では規模がすべてではなくなり、多くのDCL所有のモルトウイスキー蒸溜所は過剰能力を抱えて1980年代には破綻の危機に直面したため、グレーンウイスキーも大幅な減産を余儀なくされた。カレドニアンは需給面から余剰と見なされて1988年に閉鎖され、大規模な解体作業を経て貴重な跡地の再開発が行われた。
しかし、カレドニアン蒸溜所は地元の空にそびえる「傾いた」赤レンガの煙突と共にダーリー・ロードに沿ってヘイマーケット駅に近いエディンバラの西側でまだ存在感を示している。
近づくと、古い蒸溜所のほとんどが片付けられて、住宅開発地区に変わっているのが、いくつかの石造りの倉庫を含む多くの建造物が残存し、新しい方法で利用されているのが分かる。
最も重要なのは、1855年の年代が打ってある典型的な当初の蒸溜器の建屋が計画的に復元され、いくつかの高級アパートに改造されている点だ。
個別に瓶詰めされたカレドニアン・グレーンウイスキーは非常に入手が困難だが、ウイスキーがなかなか見つからない場合でも、アパートは購入可能で、以前のスティルハウスに住むことはできるのだ。