日本最高齢の洋樽職人

February 17, 2012

マルエス洋樽製作所の齋藤光雄社長は、今年で85歳。樽作り60年の技術を一目見ようと埼玉県羽生市を訪ねた。(文:遠藤建、写真:ウィル・ロブ)

伝説の洋樽職人は、スタッフが組み上げた樽を黙々と検査していた。今年で85歳。ゆうに100kg以上はある樽を転がし、立て、不良箇所を見つけては材を組み替える。その身のこなしは武道家のように無駄がない。

樽職人、齋藤光雄は昭和2年に東京で生まれた。家業は樽問屋。石鹸の材料となる牛脂を入れて日本に届いた輸入樽を買い取り、溶剤を入れる容器などに組み替えて転売するリサイクル業者である。組み替えがメインの樽問屋にも、新樽の製作が依頼されることは稀にあった。少年時代、山梨のワイン工場から依頼を受けたときのことをよく憶えている。

「組み替えは毎日やっていたけど、新樽を作るのは初めて。それでも職人が国産のナラ材を買ってきて、新樽を10本ぐらい作った。火を焚いて材木を熱し、ワイヤーで曲げて樽を作る。昔はいきなりそんなことができる職人がたくさんいたんだね」。前例がなくとも自力で作ってしまう。日本のモノ作りの原点を見るようなエピソードである。

家業を手伝いながら、終戦までの約3年は軍需工場での勤労奉仕を経験した。現場は隅田川沿いの向島にあった「墨田川造船所」。自宅からも近く、木製の船を造っているという理由で選んだ工場だった。レーダーに映らないようにケヤキ材で骨を作り、耐水ベニヤ板を張って船体を造る。それが実は特攻兵器「震洋」だった。「2mぐらいの船の骨を造るのに、太いケヤキ材を鉄釜の熱湯に入れてふかす。熱を加えれば木は曲がるということをそこでおぼえました」。

ニッカに新樽を大量納入

東京大空襲で家も工場も失った。戦後は裸一貫からの再出発。しかし職人は道具さえ手に入れば何とかなるものだ。露店で買った大箱をタライに作り替えたりしながら、徐々に本業を復活させていった。 戦後復興が進み、昭和30年代に入って家業にも転機が訪れる。「ニッカの麻布工場にバーボン樽の在庫を売ったことが縁で、柏に建てる新工場に樽を納めてくれということになったんだ」。

樽の組み替えはやってきたが、新樽を作ったことは一度もなかった。昭和42年、まだ建設中の柏工場に新樽を大量納品。その2年後には仙台工場(宮城峡蒸溜所)、その次は栃木工場という具合に、ニッカの新工場のためにウイスキー樽を製作する年月が続いた。「当時のニッカさんは日の出の勢いだったね。貯蔵庫をずらりと建てて、『ここに入れる樽を400本作ってくれ』と言われたときには驚いたよ」。

宣伝のためにニッカの作業服を着て、三越や高島屋で樽の製作パフォーマンスをおこなったこともある。大きな音が客足を呼び込み、ウイスキーがよく売れたのだという。ウイスキーの噴水を作って、デパートがウイスキーの匂いでいっぱいになった。ニッカの西宮工場に泊まり込んで、大樽を10本ほど組み替えたこともある。関西には同業者もいたが、樽が大きすぎて手に負えなかったらしい。「マルエスの樽で仕込んだ原酒が一番美味しいとニッカさんに言われたことがありますよ。樽材を曲げるときに火で炙った具合がちょうどよかったのかもしれないね」。

しかしやがて上客だったニッカが自社内に樽工場を作ると注文が激減。あわや廃業という時期もあったが、焼酎メーカーからの依頼が来るようになって盛り返した。焼酎用もウイスキー用も、新樽は北米産のホワイトオークで作るパンチョン樽が主流である。現在、マルエスの新樽は90%以上が焼酎用。日本随一のウイスキー樽が、焼酎ブームのお陰で断絶を免れたのは興味深い事実だ。

今でこそいくつもの大型機械を擁するマルエスだが、最初はすべて手作業からのスタートだった。材木を加工するのは大工道具だが、樽は建物と違って曲面が多い。そこで樽作りに適した道具を、自分で改良して使うようになった。そもそも洋樽は誰も作ったことがないし、教えてくれる人がいないのだ。「今は機械でおこなうタガ締めも、1人が樽を押さえて、1人が大ハンマーで叩いて締めたものだ。大きな樽を扱うときは、深さ30cmの穴を掘って作業したよ」。

材木を樽形に曲げる方法も独特だ。費やす時間はたっぷり30分。あらかじめ材木を炙っておいてから、曲げ機の下に持ってくる。そこでもしばらく火力で内側を熱し、火に水をかけて、勢いよく蒸気が出したところでグイッと曲げる。まさに火と水の共同作業。社長が独自に考案した手順である。

未来に継承すべき技術

マルエス洋樽製作所は新樽製造が中心で、昔ながらの手作業が残されている。例えば漏れを防ぐための目張りにバーボン樽はパラフィンを用いるが、マルエスではガマの茎を板の間に挟む。原始的だが、こちらの方が漏れは少ないという。

目下の課題は、この技術を次世代に受け継いでいくこと。以前は娘婿を跡継ぎに据えたこともあったが、注文の激減で断念した。「新しい人も来るけど、腕が痛いから初日のお昼に帰っちゃう人もいた」。そういって、齋藤社長はグローブのように大きな手を見せてくれる。「若い頃からやらないと、ここまで大きくはならないんだけど」。

現在のスタッフ2名は、それぞれ5年と10年の経験を積んできた。作業はそれなりに任せられるが、問題は材木の選別なのだという。「まだ現場に出ているのは、材木を選別ができる人がいないから。輸入材には、木目がねじれて使えないものが必ず混じっているからね」。

数年前にベンチャーウイスキーが依頼したミズナラ樽は、木場にある家具材専門の材木屋で、齋藤社長が1枚ずつ選んで作ったのだという。「ミズナラは難しいというけど、アメリカのオークと変わらないよ。ただ材料の見極めが難しいだけ」。

最近は日本酒メーカーから引き合いがあった。今日もできたての新樽が、マルエス洋樽製作所から運び出されようとしている。納入先は秩父蒸溜所。この樽で美味しいウイスキーが出来上がるのは何年後のことになるのだろう。名人の新樽は、またひとつ長い旅路を歩き始めたばかりなのである。

 

齋藤光雄(さいとう・みつお)
1927年、東京に生まれる。パイロットに憧れるが近眼のため断念。高等工業学校の機械科で学び、家業の樽問屋を継ぐ。1955年頃より日本初の洋樽製作工場として、主にニッカウヰスキーへウイスキー樽を大量に納入。現在マルエス洋樽製作所代表。

 

 

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