バッファロートレース マスターのやりかた
アメリカン・ウイスキーの革命家として名高いエルマー・T・リーの人生に重ねてバーボンの歴史を紹介する
Report : ライザ・ワイスタック
1949年にケンタッキー州立大学の工学部を卒業したエルマー・T・リーは、その若い心の中にアメリカンウイスキー業界を革新し、その公のイメージを世界レベルのものに押し上げたいという気持ちを抱えていた。そして彼が実際に成し遂げたのは、卒業の年にバッファロートレース蒸溜所にプラント技術者として雇用されたことに始まり、未だに名誉マスターディスティラーとして働き続けているその職歴である。
大層なもの言いだって?確かに。しかしその60年に渡る業界の最前線から、リーは酒を嗜む消費者たちに対してシングルバレルバーボンのコンセプトを紹介してきた。それは十分評価に値するものである。
彼の90歳の誕生日は当然のごとく祝福に満ちていた。結局のところ、彼はその名にちなんだ名前のバーボンを持つマスターディスティラーのひとりなのである。8月中旬に、リーのよき友人でもある多くのアメリカのウイスキー業界の著名人たちが、バッファロートレース・クラブハウスへとお祝いのために集まってきた。ワイルドターキーのマスターディスティラーであるジミー・ラッセル、ヘヴンヒルのクレイグ・パーカーとビーム・パーカー、メーカーズマークのケヴィン・スミス、フォアローゼズのマスターディスティラーであるジム・ラトリッジといった顔ぶれが誕生パーティーには揃っていた。もちろんリーを誇らしげに同僚と呼ぶ蒸溜所従業員の数の多さは言うまでもない。
パーティーの数週間後、私はリーとともにバッファロートレース本部の日当たりの良い部屋で、マホガニーのテーブルを前に腰をかけていた。ここは過去60年間、彼の第2の家だったのだ。彼はシャープな格子縞のフラットキャップを誇らしげに身につけていて、この帽子は実際に彼を象徴するアイテムとなっている。もちろん彼のウイスキーは当然として。リーと語り合うひとときは、例えばアメリカの料理の芸術性を高めたジュリア・チャイルドや、従来のブルース、ゴスペル、クラシック音楽を融合させ、私たちが現在古典ジャズとして知っている音楽を生み出したデューク・エリントンとともに語り合うような経験に似ている。
そしてリーといることは、高い水準に対して謙虚、頑固、そして直感的に取り組む性格の人物とともにいるということである。あるいはまた、企業が成長し変革を遂げる中で、商売と文化はもちろんのこととして、いかに偉大な仕事を成し遂げ、創立の志も保ち続けるべきかの策を、じかに練り上げた語り部とともにいるということでもある。
「それはすべて、ハワード・B・ブラントン大佐が長年にわたって、この蒸溜所の共同オーナーとマネージャーを兼ねていた時代から始まったことだ」と、リーは杖をテーブルの上に置きながら語った。リーは1968年に蒸溜所マネージャーならびにマスターディスティラーへと昇進した。(『確かそうだった思う』と言いながら、眉根に皺を寄せた)。会社のマスターディスティラーであったゲイリー・ゲイハートとアル・ガイザーの下で技術を学んだのだ。そして 1984年。長年の経営母体シェンリー・ディスティラーからこの蒸溜所を買取った蒸溜所のオーナー、ファーディ・フォークとロバート・バラナスカスは、リーに対して高価格、高品質のプレミアム・バーボンの生産をもちかけたのである。
「いくつものアイデアを話し合い、やがて私たち全員を惹きつけたのは、私がブラントン大佐から学んだものに基づくアイデアだったのさ」とリー。「彼にはお気に入りの熟成庫があって、個人利用や接待の用が生じたときには、サンプルを探すために直接熟成庫へと足を運んでいた。そこにあったのは8年から10年の間十分に熟成されたもので、そしてそれらを一通りテイスティングして、それらの中で一番優れているものを選び出し、自分で個人的に使うために、このサンプルを詰めたボトルが欲しいと言っていたんだ。それが蒸溜所の新しいオーナーたちの目に、売れ筋のよいアイデアと映ったというわけさ」
こうして、シングルバレルのコンセプトが誕生した。「私たちはそのバーボンにブラントン大佐にちなんだ名前を付けた。それがブラントンだ。そしていまでもその名前を使っている」と、リーはそれを当たり前のような口調で語った。「そのバーボンを、特別にして並のバーボンから隔てていたのは、ある熟成庫中のとある場所だった。どうやらそこがバーボンの熟成には最適だったようでね」そしてそれと同じように、熟成の不可解な科学、すなわち光、温度、時間そして空間の錬金術的融合が、その本質へと蒸溜されている。こうした絶妙な秘技の数々が特定され、推進されていった。1年も経たずに、会社はロックヒル・ファームやハンコック・リザーブのような他のシングルバレル商品を発売した。
1986年には、リーはフルタイムの仕事から引退し、彼が言うところの「コンサルタント事業」を続けている。会社が名誉マスターディスティラーと呼んでいる地位である。この名誉称号はとある要請で実現した。「理由のひとつは、私が引退する際に、ファーディとボブがバーボンに私の名前を付けても良いかと聞いたことからだった。私は『もちろん。ただしそれに使うバーボンは選ばせてくれ』と答えて、それを今でも続けているというわけなんだ。私のお気に入りは倉庫Iと倉庫Kなのだが、いくつかの特定の場所があって、もっとも優れたバーボンは8年と9年熟成、そしてそれらは9つのフロアのうちの4、5、そして6番目のフロアにおいてあるものだ。ということで、エルマー・T・リーの瓶詰めの準備をする際には、担当者達がそれらの場所に行ってサンプルを採取し、実験室に送ってくるので、私はそれをテイスティングして標準に準じたものをボトリングするということさ。各ブランドに対して標準は確立されているからね」とリーは明言した。 「知識として学ぶことはできるけど、身につけるためには、しばらくの間実地の練習を行う必要があるね」
リーは、技能の変革を支えてきた技術を先んじて追い求めることにはあまり興味がないようである。あえて尋ねれば、技術そのものがあまり大きな影響を与えてきたとは思っていないことが分かるだろう。機器の多くを自動化しても、それは単に蒸溜所の、そして会社の効率性を向上させただけだと彼は見ているようである。
「マスターディスティラーのゲイリーとアルから理屈に加えて最も多く学んだことは、製造過程で衛生に対して注意を払うということだったよ。自動化が進むにつれ、蒸溜過程にも数え切れない変化がもたらされたにもかかわらず、私たちの仕事は50年前や、さらにそれ以上前のものと変わらぬ品質のバーボンを生み出している。自動化はこの過程を効率的にはしたけれど、過程そのものを変えてはないのさ。マスターディスティラーは今でも日々各工程に目を光らせている。全体を見渡しながら、すべてが整っていることを確認するために、彼は温度と圧力のグラフなどを使っているんだ」
バッファロートレースの広報マネージャーであるアンジェラ・トレイバーが、マスターディスティラーであるハーラン・ウィートリーの「新しいおもちゃ」について話したらと促した。それはオフィスに設置された馬鹿でかいTVスクリーンで、途切れることなく液量や、温度、その他蒸溜所の膨大な製造機器に関連する情報が表示されているのである。
「あんな形で働くことができるなどとは想像することもできなかったね」とリーはため息をついた。「私がガイザーとゲイハートの下で勉強していたときには、いま話に出たようなものじゃなくて、ただひたすら歩き回ることが中心だったから」
彼はバーボンが世界市場でこれほど人気が高まるとは予想していなかったと語った。「シングルバレルバーボンのコンセプトを紹介したときには、それがこんなに世界的な広がりを見せるとは思わなかったし、各蒸溜所のトップラインナップとして扱われるようになるとも思っていなかったね。1984年のコンセプトの紹介で、私たちの企業は飛躍できた。そしてその3〜4年後には多くの追随者が生まれてきたというところかな」
以前のリーは、ある種の大使として世界中を旅して回っていた。彼の生まれ故郷のブルーグラス州(ケンタッキー州のこと)の白いテーブルクロスのレストラン(高級レストラン)にバーボンがあって驚いた話や、アメリカン・ウイスキーの日本での人気ぶりを目にしたことを語ってくれた。名誉ディスティラーとしての東洋に赴いたときは、アメリカ軍の飛行機に乗って行ったときの経験とは全く異なるものだった。
「かつて一度、日本にブラントンのプロモーションをするために行ったことがある。実は私は第二次世界大戦中にもそこを訪れていたのだよ。但し爆撃機で。そのため私は日本を何度もレーダーの目を通して見たことがあるのさ。日本にプロモーションのために訪れ、京都に行く機会を持った。日本の古都だね。そこではかつて天皇のために捧げられていた儀式や事物が変わらずに保たれていたな。そしてまたケンタッキー・バーボンも愛してくれていた」
彼が回想しているときに、建物の正面のドアがきしむように開き、バタンとしまった音がした。くぐもった挨拶の声が部屋の外で聞こえ、やがてワイルドターキーのマスターディスティラーであるジミー・ラッセルがセピア色の会議室へとふらふらと入ってきた。
「やあ、ジミー・ラッセルじゃないか!」彼は生き生きとした喜びの声をはりあげ、満面の笑みを浮かべた。「どうだい、調子は? ジミー?」
「上々さ」ラッセルは言葉を搾り出すように話した。「どうですか調子は?」そう言いながらトレイバーが腰を浮かせた。「お水でも?」ラッセルは頷いた。
「その水と一緒に、バーボンを少しどうだい?」リーが促す。
古い友人は笑う。リーは、あの自分の誕生パーティーをどれほど驚き、どれほど楽しんだかを話した。
「街からそして蒸溜所から、たくさんの友達が来てくれた。ジミーのと同じさ。働くには良い所だ」と彼は話す。「君は家族の一員だ。だから、きっと製品もさらに良くなると信じているよ」とリー。
「みんな、これが自分の人生の一部のように感じているよ」と、ラッセルが話を差しはさむ。「バーボンを仕事に選んだどの家族もそうさ。どの蒸溜所でもね。そうだろう? いま私はみんなに言っているのさ。もっと年老いて孫と一緒に働くようになったらわかるさ、ってね」リーは頭を反らせて、くすくすと笑った。
リーにとってもしそれが天職ではなかったとしても、ゴルフと造園と細部への気配りの好きなエンジニアにとって、自然に適応できる仕事ではあっただろう。
「大学生のときには、いろんな種類のビールを飲んでいたのさ。バーボンはときおり試してみたくらいでね。でも良い飲み物を探している多くの人たちのように、結局はケンタッキー・バーボンに落ち着いたけど。もしケンタッキー・バーボンに落ち着くなら、間違いはないからね」
「流行は次々と変わるものさ、わかってるだろうけど」リード・ボーカルへと寄り沿うギタリストのようにラッセルが割り込んだ。「ワインクーラーなんてものもあったな。そのときはその話題を良く聞いたけれど、今じゃどのくらいその名前を聞くことがある? しかしバーボンは変わらない。人々はそのテイストを愛している。バーボンは皆が好む飲み物なのさ、その味と香りをね。とても口に合うし、ストレートでも、ロックでも、カクテルにしても飲むことができるのさ」
「味わいはひとに寄り沿う。そうだろう?」とリー。彼がそして皆が良く知っていることだ。