政孝のペン、リタの国 【前半/全2回】
日本のウイスキーの父 、竹鶴政孝氏。WMJでは、ドラマで描かれなかった竹鶴氏のスコットランド修業時代のことを掘り下げてみよう。
まだ日本でウイスキー自体があまり知られていない大正時代 、単身スコットランドに渡りウイスキーづくりを学んだ人物…のちに日本初のウイスキー誕生に携わり、独立後には自身のニッカウヰスキー株式会社を設立したことで知られる竹鶴政孝氏を簡単に紹介すれば、このようになるだろうか。
竹鶴氏をモデルにした、現在放送中のNHK朝の連続TV小説「マッサン」でも帰国後のシーンから始まり、「日本初のウイスキーがつくられるまで」に重点が置かれている。
しかしウイスキーファンの方々だけではなく、竹鶴氏がどのような海外修業を経て帰国したかに興味をお持ちの方は少なくないだろう。
ウイスキーマガジン・ジャパンでは、竹鶴氏のスコットランドでのウイスキー修行の足跡を追ってみよう。
竹鶴氏が当時勤めていた摂津酒造の任を受け、スコットランドへのウイスキー留学に出たのは1918年7月3日 ―神戸からサンフランシスコへ向かう20日間の船旅から始まった。竹鶴氏の中学の先輩にカリフォルニアで苺の栽培で成功した人物がおり、その縁でまずカリフォルニアのワイナリーを見学することになったのだ。
渡航前から英語は堪能だった竹鶴氏だが、アメリカでは訛りや会話のスピードに非常に苦労した。そのため昼はワイン造りの見学、夜は英会話の訓練という日々を1ヶ月ほど送っていた。
その後イギリスのビザを取得するためニューヨークに向かったが、ヨーロッパは第一次世界大戦のさなかにあり、一向にビザの下りる気配がない。ようやく交付されたのは11月になってからだった。ビザを手にするとすぐ、竹鶴氏はイギリスへ向かった。一刻も早くウイスキーの本場をその目で見たい一心だっただろう。
12月にリヴァプールに入港した竹鶴氏は、エディンバラ、グラスゴーへと移り、グラスゴー大学と王立工科大学で化学のコースを受講した。ウイスキー製法に関する講義はなかったが、ウイスキーづくりを学ぶため日本から来た旨を伝えると、王立工科大学の化学の教授から1冊の本を紹介された。「ウイスキー並びに酒精製造法(The manufacture of Whisky and Plain Spirit)」J・A・ネトルトン氏が著した、ウイスキー蒸溜工程を克明に記した研究書だった。
竹鶴氏は化学を勉強しながらこの本に取り組んだ。すでに英語力は難なく専門書を読み込めるほどになっていたが、実際の蒸溜の仕組みはやはり目で見なければ分からない。意を決して1919年4月、グラスゴーからハイランド地方エルギンの町へ向かった。
まずは頼みの綱だった本の著者ネトルトン氏の元を訪れたが、蒸溜所の紹介やウイスキーの講義の代価として海外留学中の青年には払いきれない額の謝礼を要求され、竹鶴氏は諦めるほかなかった。
失意のなかエルギンの町で見学をさせてくれる蒸溜所を訪ねて回り、ロングモーン・グレンリベット蒸溜所(現ロングモーン蒸溜所)に辿りついた。ここでやっと1週間の実習を許された。
ロングモーン蒸溜所はゲール語で「聖人の場所」を意味し、かつては礼拝所があった場所と言われている。
1894年から操業開始したこの蒸溜所は、石炭による直火焚き、石造りの頑健な建物で、後年竹鶴氏が余市に蒸溜所を建てる際に大きく影響をもたらした。現在はペルノ・リカール社の傘下にあり、オフィシャルボトルでは16年が発売されている(日本国内では未発売)。
竹鶴氏の初めての現場体験となったこのロングモーン蒸溜所での実習は、書物では得られない知識の宝庫だった。
マッシングの温度、樽の違い、スチルの表面を叩いて蒸溜の進み具合を判断する術…竹鶴氏は夢中でメモを取った。「本物のウイスキーを日本でつくるのだ」という自らの決意がいかに大きいかを再認識する日々でもあった。
再びグラスゴーに戻った竹鶴氏は、次にはグレーンウイスキーのつくりを学ぼうと活動を始める。
グラスゴーのジャーナリストの助言を頼りに、ジェームズ・カルダー社所有のボーネス蒸溜所で実習の受け入れを取り付けることができた。
ボーネス蒸溜所は、1813年にエディンバラから20kmほど北西に位置する町ボーネスに創業しモルトウイスキーを生産していた。しかし2度の所有者交代に伴ってポットスチルは解体、代わりにカフェスチルが設置されて1876年以来グレーンウイスキーの専門蒸溜所となっていた。
竹鶴氏が実習を行った2年後の1921年にジョン・デュワー&サンズ社に買収され、さらに当時グレーンウイスキーの最大手だったディスティラリー社(DCL)が買収。1926年に閉鎖となった。
ボーネス蒸溜所はカフェスチルでグレーンウイスキーを生産していた。
竹鶴氏はこのポットスチルとは全く異なる、高さ15mにも及ぶ巨大な機械のような連続式蒸溜機に圧倒され、強く関心を寄せた。しかしロングモーン蒸溜所と違って規模が大きく、思うようにメモやスケッチができない。当初2週間の予定だった実習を1週間延期して、グレーンウイスキーの製造工程、スチルの操作方法を、夜を徹して学んだ。
この経験をもとに、日本でのグレーンウイスキーづくりにあたって、当時でも少なくなりつつあったカフェスチルの導入にこだわった。カフェスチルは連続式蒸溜機であってもグレーン由来の香味が残り、軽くなりすぎない。竹鶴氏は後に自身の蒸溜所となる余市・宮城峡のモルトと合わせてブレンデッドウイスキーをつくるには、このグレーンが必須と考えたのだ。
同じ頃、竹鶴氏はグラスゴー近郊のカーカンテロフの町でジェシー・ロバータ・カウン―リタさんと出会う。同じ大学の医学部に通うエラさんと知り合ったのがきっかけだ。グラスゴー大学医学部内で唯一 の女生徒だったエラさんは、同じく唯一の東洋人の竹鶴氏を自宅のお茶会に招く。そこで姉のリタさんと出会い、弟に柔道を教えたり、リタさんのピアノに竹鶴氏が鼓を合わせる合奏をしたりして親交を深めていったのである。
後半では、竹鶴氏のスコットランド修業期間の後半…リタさんという伴侶を得て、日本へウイスキーづくりを持ち帰るまでをお届けする。
【後半に続く】