スコッチウイスキーの盛衰を象徴する「失われた蒸溜所」の中でも、ポートエレンは特別な存在だった。その歴史と復活の経緯を振り返り、蒸溜所とアイラの未来を展望する2回シリーズ。

文:ジョエル・ハリソン

 

今振り返って見ても、やはり20世紀後半はスコッチウイスキーにとって苦難の時代に違いなかった。特に1970年代後半はいよいよ人気が低迷し、その結果として1980年代初頭までにスコットランド全土で20軒のウイスキー蒸溜所が閉鎖される事態になった。さらに1990年代初頭にかけて休業に追い込まれた蒸溜所も7軒にのぼる。このような時代の流れに逆らって、同時期に開業したウイスキー蒸溜所はわずか2軒である。

この不況期の間、ずっとスコッチウイスキーの販売数を牽引していたのはブレンデッドウイスキーだ。具体的にはベルズ、ティーチャーズ、ジョニーウォーカーなどの定番ブランドである。シングルモルトウイスキーはまだ生産量が少なく、ようやく一部で商品化が始まったばかりだった。

新しい蒸溜所のポットスチルは、かつてポートエレンで使用されていたスチルのスペックを忠実に再現。「フェニックス」(不死鳥)と名付けられてアイラ新時代の象徴となっている。

だが20世紀の末から状況に変化が現れる。シングルモルトの需要は徐々に高まり、ウイスキー不況で閉鎖された蒸溜所の遺産ともいえる樽入りの原酒に注目が集まり始めた。もはやスピリッツを生産できない蒸溜所の名を冠したシングルモルトウイスキーが、愛飲家やコレクターの間でお宝のような存在として珍重されるようになった。

かつてのポートエレン蒸溜所といえば、ブレンデッドウイスキーにスモーキーな香味を追加するための原酒工場という位置付けだった。つまり大半の原酒はブレンド用に回されるため、そもそも長期熟成の原酒がほとんどなかった。そんなポートエレンが、やがてブレンデッドウイスキーではなくシングルモルトとしての地位を確立する未来がやってくるとは、どんなウイスキー業界関係者も予測できなかったであろう。

だがシングルモルトスコッチウイスキーの世界で、今やポートエレンほどエキサイティングな存在もない。シングルモルト主導の新しい夜明けが始まると、1980年代から1990年代の暗黒時代にかけて閉鎖されたスコッチウイスキーの蒸溜所が「ロスト・ディスティラリーズ」(失われた蒸溜所)と呼ばれて注目を浴びるようになった。皮肉な話であるが、閉鎖されたが故に味わってみたいというウイスキー愛好家たちの自然な好奇心を惹きつけたのだ。

シングルモルトウイスキー人気で再び息を吹き返したスコッチ業界は、輸出量を2002〜2016年に4,700万本から1億1,400万本へと増加させた(増加率は143%)。そしてすでに閉鎖されたり、取り壊されたりした蒸溜所のシングルモルトが伝説的な地位を確立するまでになった。

これらの閉鎖された蒸溜所で生産されたモルトウイスキーは、かつてないほどの酒齢に達したまま放置されていた。主にブレンデッドウイスキー用の原酒として生産されたポートエレンのようなモルトウイスキーは、通常なら熟成期間が10年を超えることさえほとんどなかった。そんな中で、酒齢20年を超えて貯蔵されているポートエレンの原酒に注目が集まったというわけである。

ポートエレンが初めてオフィシャルのシングルモルトウイスキーとして発売されたのは2001年のことだ。ディアジオ社のスペシャル・リリース・コレクションの一環として、酒齢22年のポートエレンが約100英ポンドの価格で発売された。長期熟成らしく深い味わいが、ウイスキーファンをうならせて蒸溜所の知名度も上げた。今日この特別なボトルは通称「ファースト・リリース」と呼ばれ1本4,500英ポンド以上で取引されている。
 

業界の盛衰に翻弄された蒸溜所

 
ポートエレン蒸溜所は、アイラ島の南岸に建っている。元々の蒸溜所は、1824年にアレクサンダー・マッカイが設立した。場所は製麦所の跡地であり、その古い製麦所はアイラ島内のウイスキー蒸溜所に大麦モルトを供給していたという。その後、1973年にはここで新しいポートエレン製麦所も建設された。この製麦所はウイスキー不況で窮地も経験したが、アイラ島や周辺の島々の蒸溜所との取引を維持して現在も操業を続けている。

左からユアン・アンドリュー(ディアジオ・グローバルサプライチェーン調達部長)、アイメ・モリソン(マスターブレンダー)、アリ・マクドナルド(蒸溜所長)。歴史あるポートエレン蒸溜所の復活を祝った。

アレクサンダー・マッカイによる初代ポートエレン蒸溜所は、ウイスキー生産で思うような成果を上げられなかった。マッカイは事業を売却し、1836年には蒸溜所の所有権が当時21歳だったジョン・ラムジーに引き継がれる。ラムジーの目標は、ポートエレンの地位を近隣のラフロイグ、ラガヴーリン、アードベッグに匹敵する本格的なウイスキーメーカーにまで引き上げることだった。

現在のポートエレン蒸溜所でシニアグローバルブランドアンバサダーを務めるユアン・ガンは、このジョン・ラムジーの功績を高く評価している。

「ジョン・ラムジーは、まさにこの時代を代表する実業家でした。ポートエレンは当時まだ珍しかったシングルモルトウイスキーを製品化した先駆的な蒸溜所のひとつであり、最初期に米国へ輸出されたスコッチウイスキーでもありました。また面白いことに、ポートエレンはスコットランドで初めてスピリッツセーフを導入した蒸溜所でもあります」

ラムジーはウイスキーづくりだけでなく、アイラ島の経済を担うインフラ整備にも力を注いでいた。グラスゴーとの間を隔週で往復する蒸気船の就航を支援するなど、交通の重要性についても深く理解していたのである。

ラムジー家は世紀が変わっても事業を受け継いでいたが、1920年にジョン・デュワーとジェームズ・ブキャナンが蒸溜所を買収する。当時のデュワーとブキャナンは、ブレンディング界の大物コンビとして知られていた。この2人の会社が後にディスティラーズ・カンパニー・リミテッド(DCL)となり、さらなる合併の末に現在のディアジオへと歴史が受け継がれていく。

しかし本当の苦難が、まもなくやって来た。世界恐慌と米国の禁酒法によって、ポートエレンの経営も大打撃を受ける。蒸溜所は1930年に閉鎖され、1967年まで休業したままだった。ポートエレン蒸溜所の敷地には1973年から大規模な製麦工場が建設された。この製麦工場が、設立以来ずっと稼働しているのは前述の通りである。
(つづく)