現存するサントリーの工場の中で、最も長い歴史がありながら謎に包まれてきたサントリー大阪工場を訪ねる3回シリーズ。

文・写真:ステファン・ヴァン・エイケン

 

サントリーが、「ジン」カテゴリーの強化に乗り出している。今年初頭の発表によると、2030年までに国内ジン市場を450億円規模まで拡大させる目標だ。ジンソーダ缶を含む小売価格ベースで、昨年比の2倍、2020年比の6倍という国内ジン市場の急成長を目指している。この取り組みの一環として、今後2年間で大阪工場に55億円の設備投資をおこなって生産力を増強するという。

サントリー大阪工場は、数あるサントリーの製造工場の中でも特に長い歴史がある。現在と同じ場所に、前身である築港工場が創設されたのは1919年のこと。当初は主に「赤玉ポートワイン」を瓶詰めするための施設だった。「日本人の味覚に合う洋酒をつくり、日本に洋酒文化を切り拓きたい」というサントリーの使命を実現するため、鳥井信治郎社長が情熱を傾けた重要な工場である。

サントリー大阪工場の敷地内にある神社。後方には連続式蒸溜機のコラムも見える。メイン写真は、サントリー大阪工場の正門前にある鳥井信治郎の銅像。赤玉ポートワインのボトルを高く掲げ、台座から外へ大きく一歩を踏み出そうとしている。

今年末から、この大阪工場では浸漬タンクや開発生産設備の新設等の始まる改修工事が始まる。だがその前に、サントリーが工場見学を受け入れてくれるという嬉しい知らせが届いた。スピリッツとリキュールの製造を案内してくれるのは、ジン&スピリッツの技術顧問およびグローバルブランドアンバサダーを2019年から務める鳥井和之氏。敷地内にあるスピリッツ・リキュール工房の中も視察させてもらえるという。

サントリー大阪工場は、大阪港のすぐ近くにある。この工場が蒸溜機能を兼ね備えていることさえ、あまり広く知られていない。お酒好きのみなさんに馴染みの深いサントリーの蒸溜所といえば山崎、白州、知多の名が挙がるだろう。だが大阪工場は、実のところサントリーで最も古くから続く蒸溜機能を備えた工場なのだ。

大阪工場の敷地はかなりコンパクトで、中心を通る道路によって2つのエリアに分かれている。一方に主なスピリッツ製造と瓶詰め用の設備があり、他方には背の高い連続式蒸溜機のコラムが見える。連続式蒸溜機のそばには、同じく高さのあるタンクもいくつか並んでいる。

頭上を走る高速道路は交通量が多い。外観からは、どんな種類の工場なのかほとんど想像がつかない。それでも正面玄関を入るとすぐに出迎える鳥井信治郎の銅像が、さまざまなヒントを与えてくれる。
 

日本に洋酒文化を広めた生産拠点

 

この銅像が設置されたのは1981年だ。他の鳥井信治郎像といえば、山崎蒸溜所でウイスキーグラスを手にした後年の座像を思い出す。だがここ大阪工場は対照的で、もっと若い頃の鳥井信治郎をモデルにした立像である。颯爽と掲げているのは、赤玉ポートワインのボトルだ。

若い創業者を銅像のモデルにした理由は、この大阪工場を設立した時に鳥井信治郎がまだ40歳だったからだ。台座から飛び出さんばかりに闊歩するポーズから、常に前へ進む「やってみなはれ」の精神も滲み出ている。

スピリッツ・リキュール工房内には、ポットスチルが並んでいる。手前から第1号、第2号、第3号の蒸溜釜。

当時の広告を見ると、サントリーが単に西洋風のリキュールやスピリッツを製造するだけでなく、日本で洋酒を楽しむ消費文化の育成にも力を入れていたことがよくわかる。

サントリーは1931年に日本初のカクテルコンテストを開催している。当時のサントリーの商品といえば甘口ワインとウイスキーの2種類しかない。そんなタイミングでカクテルコンテストを開催した意欲は特筆されるべきだろう。鳥井信治郎は「良いものをつくらないと売れない。良いものをつくっても、知られなければ売れない」とよく語っていた。カクテルコンテストの開催は、そんな信念の実践だったのだ。

カクテルコンテスト初開催から5年後の1936年に、鳥井は日本にマティーニを代表とするカクテル文化を広めるべく「ヘルメス ドライジン」と「ヘルメス イタリアンベルモット」をリリース。百貨店でセミナーを開催し、家庭用バーセット(1958年の「ヘルメス ベビーカクテルセット」)も発売している。

なおサントリーは1994年から現在の「サントリー ザ・カクテルアワード」の前身となる「サントリー カクテルコンペティション」をバーテンダー対象に開催し、バー業界のバックアップを続けている。洋酒の魅力を日本中に広めたいという情熱は本物だった。
(つづく)