父親から家業を引き継ぎ、改革を成功させているウイスキー業界の女性たち。性差にまつわる偏見を超え、フェアな繁栄を目指すための2回シリーズ。

文:ハリー・ブレナン

 

家族経営の蒸溜所は、ウイスキー界の伝統を継承する存在として高く評価されることも多い。だが伝統の継承だけでなく、進歩的な変化をもたらしている事例もある。

ノックニーアン蒸溜所を創業したアナベル・トーマスのように、ゼロからウイスキー蒸溜所を立ち上げた女性創業者がいる。その一方で、世界には家業としてのウイスキー製造を継いで活躍中の女性たちもいる。タスマニア、ドイツ、オーストリア、ニューヨークなどの津々浦々で、父親からウイスキー製造の伝統を受け継いだ娘たち。いわば「蒸溜所の娘たち」の現状を取材してみた。

家族経営の蒸溜所で働けば、通常の会社にはない「揺るぎないサポート」を得られる。しかし同時に「大きな期待」を背負わなければならないのも事実だ。そう語るのは、オーストラリアのクリスティ・ラーク=ブース。家族経営だったタスマニアのラーク蒸溜所を売却し、自分自身のキララ蒸溜所を立ち上げた実業家だ。

「でも、それですべてがうまくいったんです」

実の父親が、オーストラリアンウイスキーを象徴するラーク蒸溜所の創設者。クリスティ・ラーク=ブースは、独自のウイスキーづくりを追求するために新しくキララ蒸溜所を創設した。メイン写真はキララ蒸溜所の外観。

そう語るクリスティが創設したキララ蒸溜所は、慣れ親しんだ故郷タスマニアのコミュニティと家業のウイスキーづくり新たなレベルに引き上げている。

キララ蒸溜所のウイスキーは、蒸溜所の敷地内で栽培された穀物からつくられる。最近のクリスティは、アイリッシュウイスキーのスタイルを踏襲した混合マッシュビルで実験を続けている。家族が育んできたウイスキー蒸溜の経験を生かしながら、自分なりの工夫を凝らす喜びにも目覚めている最中だ。

このように恵まれた「蒸溜所の娘」としての立場には、得難いアドバンテージがあるとクリスティ本人も認めている。

「家族経営のウイスキー蒸溜所といっしょに育ち、そこで働いた後に自分の蒸溜所を立ち上げる幸運はめったなことで手に入りませんからね」

クリスティのような「蒸溜所の娘」は、米国ニューヨーク州北部にもいる。父親とともにクーパーズドーター蒸溜所を創業したソフィー・ニューサムだ。

ソフィーも親から譲り受けた設備と経験を土台に、改革のチャンスをものにした人物である。だが自分で考案したフレーバー付きのウォッカ、リキュール、バーボンは、まず父親の強い反対にあった。父は胸焼けがするほどアルコール度数の高いウォッカやシングルモルトやバーボンが好みで、混ぜ物などもってのほかというプレーン主義者だったのである。

だが初めて出展した見本市で、ソフィーのフレーバー付きスピリッツが大好評を博した。そんな状況を目のあたりにして、頑固な父も娘のアイデアを認めざるを得なくなったのである。父親のウォツカは、その見本市でほとんど試飲されなかった。

地元産の穀物を使用しているタスマニアのキララ蒸溜所と同様に、クーパーズドーター蒸溜所も「ファーム・トゥ・テーブル(農場から食卓へ)」という理念にフォーカスしながら独自のスピリッツ蒸溜に強い情熱を注いできた。

ソフィーは蒸溜所を取り囲むように生えているブラックウォールナット(黒胡桃)の木からシロップを採取できることを発見し、シロップ樽でフィニッシュした「ブラックウォールナットバーボン」を開発。現在はこれがクーパーズドーター蒸溜所の主力商品となっている。
 

家族との葛藤を乗り越えて新境地を開拓

 
家業の伝統を土台にして、イノベーションを起こした女性はドイツにもいる。ヘルシニア・ディスティリング・カンパニーのヘッドディスティラーと製造責任者を務めるアンナ・ブッフホルツだ。

アンナは故郷の歴史に触発され、実家の蒸溜所でシングルモルトの製造を始めた。アンナの両親は1985年から伝統的なハーブやフルーツのリキュールを製造していたが、娘のアンナは家業にさほど興味を感じなかった。伝統的な地元の蒸溜酒や、近隣のノルトハウゼンで工業生産されるコーンスピリッツ(樽熟成なし)をあまり好んではいなかったのだ。

伝統的なリキュールの蒸溜を家業とする父とは異なり、シングルモルトウイスキーの世界に憧れたアンナ・ブッフホルツ。ドイツのハルツ山地周辺で栽培された大麦を原料に、新しいウイスキー製造を始めている。

その代わりに、アンナが「初めて口にした日から大好き」だと感じたスピリッツはシングルモルトウイスキーだった。その歴史、哲学、経済的な影響力を知れば知るほど、あこがれは増すばかりだったという。

アンナはスコットランドとドイツにおけるスピリッツ製造の歴史を紐解き、修道院でつくられてきたビールやウイスキーなどの類似点に気付いた。故郷のハルツ山地周辺は、歴史的に大麦を栽培している。つい19世紀までは、この地で栽培されていた数少ない穀物のひとつが大麦であった。

そしてスコットランドのリンドーズアビーの修道士ジョン・コーよりもはるか以前の14世紀から、近郊のヴァルケンリートの修道士たちが大麦麦芽からアクアヴィータを蒸溜し始めていたという史実にも出会ったのである。

だからこそアンナにとって、ドイツのニーダーザクセン州南部でシングルモルトウイスキーを製造するのは理にかなっていた。最初のバッチをつくり始めた2002年は、まだ18歳のとき。学業と並行してウイスキー製造の実験を繰り返し、やがてこれを家業の中心となっていった。

アンナのウイスキーづくりを支えてきたのは実験の繰り返しだ。書物からの情報や、スコットランドのウイスキーメーカーたちからのアドバイスも生かした。そうやって家族経営の蒸溜所で重ねた努力が、実を結ぶことになったのだとアンナは言う。

「私は40歳までに22年間もスピリッツの蒸溜をいろいろ実験できました。家族が経営する蒸溜所以外で、こんな贅沢ができる場所は他にないでしょう」
 

職場と家庭のはざまで

 
家族経営の事業を継ぐ者には、高い期待が寄せられる。キララ蒸溜所のクリスティ・ラーク=ブースは、そのような重圧を振り返って言う。

「この期待は必ずしも悪いことではありません。でもでもスピリッツ蒸溜のロールモデルとして両親が残してきた実績は、時に重いプレッシャーとしてのしかかることもあります」

このような家業ならではの重圧は、クリスティを励ましながらも悩ませ続けてきた。

クーパーズドーター蒸溜所を創業したソフィー・ニューサムは、父親を説得しながら新しい香味を開発してきた。フレーバー付きのバーボンは、蒸溜所の個性を表現した人気商品だ。

「多くの学びが得られると同時に、打ちのめされることもありました」

親族同士の口論には、いつも辛辣な本音が付きものだ。そんな家族との激論の中で、自分のウイスキーづくりの能力を信用させることはは難しい。それは14歳であろうと40歳であろうと、あらゆる娘が父親との関係で体験することでもある。

ヘルシニア・ディスティリング・カンパニーの最高技術責任者を務めるアンナ・ランガー(アンナ・ブッフホルツの共同経営者)は次のように語っている。

「父と娘は人生を共に過ごしていく家族。それが職場の上司になったからといって、公私の関係をすべて割り切ることはできません。日常生活におけるさまざまな役割から、ウイスキーづくりを区別して考えるのは永遠の課題です」

クーパーズドーター蒸溜所を創設したソフィー・ニューサムも、同様の経験について語っている。

「家族同士だと自分の考えや感情を隠さないので、仕事と家庭生活の境界線が曖昧になることがありますね」

ソフィーは2018年に蒸溜所から離れた場所へと引っ越しをした。これが最良の決断のひとつであったと本人は振り返っている。夫と一緒に蒸溜所で暮らし、私生活と仕事が一体化した4年間を過ごした経験から、家庭生活のバランスを再調整するために住居と職場を切り離したのだ。

だがそんなソフィーでさえ、家族同士の摩擦が蒸溜所のダイナミズムを生み出すこともあるのだと指摘する。

「私と父は、まったく異なる視点とスキルセットを持っていました。これを意識してぶつけ合うことが、ビジネスを成功に導く原動力にもなるとわかったんです」

ソフィー・ニューサムと同様に、アンナ・ブッフホルツも当初は父親を説得するのに苦労した。アンナの父は熟成に長い時間がかかるウイスキーづくりを厭わしく思い、娘の計画にはあまり乗り気でなかったのだという。アンナは、まず最初の年に父の許しを得て樽2本分だけ自分用のスピリッツを蒸溜した。そして2年目は5本分、3年目は10本分に増やしていったのだ。

「私がこの会社の一員になるのなら、ぜったいに自分の仕事を残したいと父に告げました」

アンナはそう振り返る。 現在のヘルシニア・ディスティリング・カンパニーは、2週間ごとに樽10本分のウイスキーを蒸溜している。懐疑的な父の考え方を見事に覆し、アンナは信念とビジョンで見事に成功を勝ち取ったのだ。
(つづく)