世界のウイスキーファンを魅了するバーボンにも、深刻な不遇の時代があった。逆境をバネにブランドを確立したワイルドターキーの秘密を探る2回シリーズ。

文:ブレア・フィリップス

ケンタッキー州ルイビルは、いわずと知れたバーボンの本拠地だ。あらゆる場所に、バーボンが存在している。レストランでは、シェフたちがさまざまな料理にバーボンの香りを添える。バリスタたちは、オリジナルブレンドのコーヒーをバーボンで香り付けする。チョコレートメーカーは、バーボンを混ぜ込んだ美味しい新商品を創作する。

雑貨屋などを訪ねても、あらゆるものにバーボンが入っている。バーボン入りのリップクリーム、バーボン入りのキャンドル、バーボン入りのローション、バーボン入りの石鹸、バーボン入りのシャンプー。ルイビルの日常は、バーボンの香りで包みこまれているに違いない。

「いい香りだね。ウイスキー飲んだの?」

「飲んでないよ。シャワーを浴びただけ」

香りだけでなく、居住空間にもバーボンは浸透している。バーボン樽を再利用したカッティングボード、照明器具、家具などは人気のアイテムだ。飲食や入浴などでバーボンを感じるのに飽きたらない人は、バーボンを燃やして楽しむこともできる。バーボン入りのシガーはルイビル市民と観光客に人気だ。

長い歴史のあるワイルドターキーで、ブランドの象徴として称賛されるジミー・ラッセル(右)。業界の低迷期にも品質を守り、息子のエディ(左)と孫のブルースにその哲学を受け継いでいる。メイン写真はローレンスバーグにある8階建てのの貯蔵庫。

しかしルイビルの真の主役は、やはりバーで提供される最も純粋なバーボンだ。バックバーに数百本ものボトルが並ぶようなバーを訪ね、ストレートやカクテルで味わいを堪能する。そんなバーには、ワイルドターキーのさまざまなボトルが豊富に揃っている。

禁酒法から不死鳥のように復活したバーボンは、その後の低迷期も乗り越えて再び大人気を取り戻している。この歴史的な経緯は、振り返ってみると複雑だ。現在の名声は一晩で生まれたものではなく、さまざまな要因と努力によって積み上げられてきた。

バーボンは、20世紀後半からのプレミアム化によって世界に翼を広げた。そして21世紀にソーシャルメディアが台頭すると、カテゴリー全体が巨大な発信力とフォロワーの支持によってさらに前進する。メインストリームのメディアにも露出が増え、バーボンはポップカルチャーに浸透した。

テレビドラマシリーズ『マッドメン』などで、バーボンはステイタスや成功の象徴として描かれた。世界中で広がるカクテルブームにも後押しされ、若者たちの心をつかんだ。バーボンはグローバル化し、本物を知る人々の豊かさを語り、蒸溜所は訪問者に門戸を開いた。

だがこのようなバーボンの飛躍も、ジミー・ラッセルのような決意に満ちた人々なしでは成し遂げられなかったかもしれない。

「ウイスキー界では、今でもバーボンの道を開いた先駆者たちに敬意が示されています。ジミー・ラッセル、ブッカー・ノウ、エルマー・T・リー、パーカー・ビームといったレジェンドたちの名前は、バーボンのファンなら聞いたことがあるでしょう」

そう語るのは、ウイスキーライターのデビッド・ジェニングスだ。特にワイルドターキーの歴史に詳しく、著書『アメリカン・スピリット』が業界で話題になった。

バーボンが巻き込まれたウイスキー市場の栄枯盛衰を振り返ると、1970年代後半には透明なクリアスピリッツの人気台頭があった。ルイビル出身の若きモハメド・アリのように、ウォツカがウイスキーをノックアウトした時代だ。

このような市場の大きな変化に対し、ほとんどのウイスキーメーカーはより軽い風味の製品へ商品群を転換させることで生き残りを図った。しかしワイルドターキーは、ここで逃げずに反撃を試みる。ジミーのような少数のウイスキーメーカーは、バーボンを救うためなら何でもやる覚悟だった。たとえ人里離れた無名の町に移転したとしても、バーボンらしい風味を曲げることはできなかったのである。
 

一貫性の追求でブランドを確立

 
ワイルドターキーのルーツは、19 世紀後半に遡る。ジェームズ・リピーとトーマス・リピーの父子が、リピー蒸溜所を立ち上げたのは1869年のこと。いくつかの所有者を経て、トーマス・リピーの息子であるアーネスト・W・リピーが蒸溜所を買い直した。

禁酒法廃止後、経営幹部のトーマス・マッカーシーが友人たちと狩りに出かけたとき、ウイスキーを持参したことで「ワイルドターキー」というブランド名が生まれた。狩猟仲間の一人が、「次回の狩猟には、その野生の七面鳥みたいなウイスキーをもっと持ってきてくれ」とマッカーシーに頼んだのだという。

子育てをする七面鳥のように、1950年にはリピー社でディスティラーを務めていたビル・ヒューズがワイルドターキーに戻ってくる。その4年後、ヒューズはジミー・ラッセルという新入社員の指導を始めた。床の掃除に始まり、ジミーはあらゆる仕事を厭わずにこなした。やがて品質管理部門に異動し、製造工程の全体について深く学ぶことになる。

今日のワイルドターキー蒸溜所には、製造工程の各段階を説明するプラカードが各所に掲示されている。プラカードは、1950 年代初頭に使用されていた酵母株や、1960 年代から使用されているトウモロコシなどについて解説している。

世界中でその味わいを愛され、ケンタッキーの製造拠点に旅行者を呼び込むようになったバーボン業界。ワイルドターキー蒸溜所も人気の目的地だ。

そのプラカードに記された日付が、すべてジミー入社以降の日付であるのは偶然ではない。ジミーの孫であり、ワイルドターキーのアソシエイトブレンダーを務めるブルース・ラッセルは語る。

「この会社で、さまざまな知見を文書に残した最初の人物がジミーでした。今でも50年代や60年代のことをはっきりと振り返れるのは、ジミーが50年代にこの仕事を始めたから。そして1967年にすべての業務を引き継いで、ワイルドターキーの資産にしてくれたからです」

現代的な業務遂行能力に恵まれていたジミー・ラッセルは、1967年から蒸溜所の業務内容を詳細に記録し始めた。たとえば現在も使用されている酵母株は禁酒法以降ずっと使われてきたものだが、ワイルドターキー蒸溜所では禁酒法以前も同じ酵母株を使用していた可能性が高いとブルースは語る。

「ジミーは酵母を担当し、品質管理に誇りを持っていました。私が子供の頃、祖父はその一部を自宅と兄弟の家の古い地下室の冷蔵庫にペトリ皿で保管していたんです」

マスターディスティラーとなったジミーは、定番品である「ワイルドターキー 101」の管理を引き継ぐ。そこでも自分なりの変更は一切加えずに、昔ながらのやり方を保存したのだという。デビッド・ジェニングスが説明する。

「昔ながらのバーボン製造に関する正式な教育はなかったはずです。当時のディスティラーは、みなベテランのディスティラーから実践で学んでいました。ジミーに仕事のあれこれを教えたのはビル・ヒューズです」

ジミーの息子で現在マスターディスティラーを務めるエディ・ラッセルは、1981年から蒸溜所で働き始めた。代替わりの後も、ウイスキーづくりの基本は変えられることがなかったとジェニングスは言う。

「ジミーはワイルドターキー101のすべてを委ねられ、昔ながらの方法を変えませんでした。ビジネスの世界では、立ち止まって変われない人が取り残されると信じられています。でもジミーは、あえて立ち止まったことでワイルドターキーの名声を不動のものにしました。他のみんながあれこれと変え始めた時代にも、一人だけずっと昔ながらの流儀にこだわったのです」

ブルース・ラッセルも説明する。

「あれこれ変え始めると、バーボンの品質に影響が出ます。ジミーはそれを何よりも心配していたのです」

ジミーの方針に従って、ワイルドターキーは今でもハンマーミルで穀物を粗く粉砕している。ジミーが遺伝子組み換え穀物を容認しなかったので、今でもその方針は健在だ。糖化用の酵素を使用しない方針も守ってきたので、他のメーカーよりも大麦モルトが多めのマッシュビルだ。

このような細部の判断はラッセルに受け継がれ、ワイルドターキーの風味豊かな一貫性に寄与しているのである。
(つづく)