バーボンの伝統を築いた男たち【第1回/全3回】

文:クリス・ミドルトン
人類が蒸溜技術を発明したときから、スピリッツ蒸溜業者は製造技術と難解な知識を口伝で受け継いできた。親方から弟子へ。あるいは家族や同僚へ。世俗的なスピリッツ製造であれ、宗教施設でおこなわれる酒造であれ、ウイスキーの蒸溜は18世紀後半まで家内工業のままであった。
それが 20世紀の大規模な産業化と科学の進歩によって、スピリッツ製造にも専門的な教育と訓練が必要となってくる。やがてスピリッツ製造は、ささやかな家内工業から大規模な組織型の工場生産へと変貌を遂げていくことになった。
家族経営だった蒸溜所の多くが没落し、大企業が業界を支配するようになる。だがそんな過程を経た今でも、生き残っている家族経営の蒸溜所はまだ数軒ほど存続している。スコットランドについていえば、ウイスキー蒸溜所を100年以上にわたって一族で運営し続けている例は2つだけ。ジョン・グラントのグレンファークラス蒸溜所(1865年創業)と、ウィリアム・グラントのグレンフィディック蒸溜所(1887年創業)は、ともに一族経営のメーカーとして健在である。同じ名前なのは偶然で、2つのグラント家に姻戚関係はない。
アメリカでは、1795年からビーム家がアメリカ国内の主要なウイスキー蒸溜所をいくつも運営してきた。またブラウン家は1902年に蒸溜所の所有権を取得し、アメリカ、カナダ、アイルランド、スコットランドにまたがってウイスキー蒸溜所を買収している。
ケンタッキー州のブルーグラス地域といえば、高品質なバーボンウイスキーの長い伝統で知られている場所だ。緑豊かなこの地域に、対照的な気質と大志を持つ2人の男が住んでいた。どちらも現代のバーボン業界の形成に重要な役割を果たした人物として、決して忘れてはならない人物である。その一人は、アメリカに移住した物静かでミステリアスなスコットランド人。もう一人は、大胆で進取の気性に富んだケンタッキー出身の貴族だった。
この2人の人生は、1852年にケンタッキー州バーセイルズで交差した。すでに有名なウイスキーメーカーとして知られていたジェームズ・クロウは当時すでに63歳。彼の許にやってきたのが、22歳のエドモンド・テイラーだった。銀行家だったテイラーは、フランクフォートからバーセイルズ支店に派遣されて会計係として働くことになった。
バーボンの基礎を築いたスコットランド人
スコットランドでビール醸造とウイスキー蒸溜の教育を受けたジェームズ・クロウは、1823年に35歳でアメリカの土を踏んだ。最初に住んだ場所は、工業とスピリッツ蒸溜の中心地でもあるペンシルベニア州フィラデルフィアだ。その3年後、クロウはカルスト石灰岩が濾過したミネラルウォーターでも有名なケンタッキー州のブルーグラス地方部に移り住む。そしてこの新しい土地で、ケンタッキー最初期のプロ蒸溜業者の一人となった。
ケンタッキーにやってきたクロウは、独立した職人としてウッドフォード郡周辺の小規模な農場蒸溜所を転々とし、有能な職人として知られるようになる。やがて1838年から1855年にかけては、オスカー・ペッパーの農場蒸溜所を設計し、再建し、設備を拡張する役割も請け負った。地元のファームディスティラー(自営の農場で蒸溜酒をつくる業者)に助言を与えながら、クロウは1日1ブッシェル(約36リットル)だった蒸溜所の生産量を25ブッシェル(約900リットル)にまで増加させた。
クロウが特にこだわったのは、蒸溜所内の清潔さだ。風味に影響を与える細菌を「見えない悪魔」と呼んで警戒した。また樽熟成を工夫することで、ウイスキーの香味も強化した。さまざまな実験を通じて得られた経験から、理想的な「自家製サワーマッシュウイスキー用銅製ポットスチル」の標準規格を設計するに至った。

科学的な試行錯誤を基盤としたクロウの仕事は、最新の機器を駆使しながらコーン原料のウイスキーの香味を進化させた。純粋な銅製の機器のみを使用することで、それまで素朴な農産品だったウイスキーを一貫して高品質な科学的成果の域まで押し上げていったのである。
ジェームズ・クロウは、ウイスキー製造におけるすべての工程をテストして評価を続けていた。具体的には、穀物の粉砕仕様、穀物の配合、糖化温度、糖化酵素、酵母接種、ウォッシュのpHを下げる酸性化比率の評価(1930年代までpH測定器はないので官能検査で実施)など、あらゆる工程が徹底検証の対象となった。
蒸溜に関して、クロウはスコットランド流の銅製ポットスチルを用いた蒸溜設備の導入を主張した。これはそれまでのバーボン用に広く使用されていた木製の半連続式室スチーム蒸溜器とは真逆のアプローチだ。銅製スチルなら、ゆっくりと低温で加熱することで蒸溜を制御できる。クリーンで甘みの強い蒸溜液を確保するのがクロウの狙いだった。
そのような蒸溜液が得られたら、チャーを施したホワイトオーク新樽に貯蔵する。ペッパー蒸溜所で、クロウは石灰岩でできた貯蔵庫にスチーム式暖房を導入した。これは業界初の試みで、熟成の速度が鈍る冬期でも熟成効率を高め、カビくさい風味を極小化するための発明だった。
それまでのウイスキーづくりでは、ウォッシュやローワインから虫を取り除くために蒸溜器内に石鹸や獣脂を入れたり、フーゼル油を吸収させるために木炭を入れたりするメーカーも多かった。だがクロウはそのような慣例をすべて廃止する。
卸売業者が事前購入した未熟成のグリーンウイスキーは、通常3~4年の樽熟成完了を待って、添加物を一切加えずに出荷されるようになった。クロウは「ストレート」な商品、つまり誠実で混ぜ物のないウイスキーを製造し、これが後に「ストレートウイスキー」として知られるようになる。
当時のウイスキーの発展を支えた意外な影の功労者に、政府の酒税徴収官たちがいた。アメリカでは19世紀半ば以降、ウイスキー製造に関する知識を受け継ぐ教育者兼普及者として酒税徴収官が重要な役割を担ってきた。政府は彼らのキャリア形成を重視したため、しばしば異なる蒸溜所に配置転換された。そこで発酵、蒸溜、熟成など最新の科学にもとづいた実践的な製造方法を蒸溜所のオーナーやスタッフに伝えていたのだ。
このような酒税徴収官は、内国歳入庁と協力して定期的にニュースレター、指示書、技術論文などを発行し、指導や業界分析の取りまとめまでやっていた。職員たちが蒸溜所で働く慣習は20世紀後半まで続いたが、彼らの功績が正当に評価されることはなかった。
(つづく)