スコッチの代名詞として隆盛を誇りながら、やがて忘れられたウイスキーの産地。ブラックアイル半島のフェリントッシュで復活の鼓動を聞く2回シリーズ。

文:ピーター・ランスコム

 

ハイランド地方の首都インヴァネスから、北へ車を走らせる。ブラックアイル半島の丘陵をのぼり、ムルヒャイヒ農場の田園風景を見晴らす。春風の中でヒバリやキビタキがさえずり、頭上の空ではアカトビがゆっくりと旋回している。

フェリントッシュ蒸溜所の復活は、設計レベルにまで進んでいる。写真はオーガニック・アーキテクツによるレンダリングデータ。メイン写真も同じく建設予定地での完成予想図。

ここブラックアイル半島は、かつて世界でもっとも有名なウイスキーの産地だった。しかしそんな栄光の時代を想像するのは、もはや難しいこととなった。それでも尾根沿いの廃墟を眺めながら歩くうちに、往時の活気が脳裏によみがえってくるような気もする。

地面から突き出した大きな石が転々と続く。ここには長い壁があったのだろう。井戸や泉の近くには瓦礫の山が残され、小さな貯水池の跡であることを示している。特に印象的な遺物は、スコットランド北部考古学協会が丹念に発掘した古い窯の土台だ。当時の蒸溜所は、ハイランドの土や草の下にゆっくりと埋め戻されつつある。

案内してくれるのは、ムルヒャイヒ農場で羊を飼育しているモリス・ダルゲティだ。かつて蒸溜所だったと思われる遺跡に差し掛かると、周囲に散らばる石を指さしてこう言った。

「この石の大きさからしても、かなりの規模の蒸溜所だとわかりますよね。当時は相当に活気がある事業だったんでしょう」

一度は業界に忘れられたブラックアイルで、再びウイスキーが製造されるかもしれない。そんなニュースを知ったとき、私の胸は高鳴った。しかもかつてスコッチウイスキーで屈指の知名度を誇った「フェリントッシュ」を復活させようという計画なのだ。このムルヒャイヒ農場内に、蒸溜所、ビジターセンター、カフェを建設する計画がすでに策定されているという。
 

王権への抵抗から始まったウイスキー製造

 
ムルヒャイヒ農場が所在するバンクルーとフェリントッシュの領地は、もともとカロデンの豪族であるフォーブス家によって所有されていた。その当主であったダンカン・フォーブスは、1690年に酒税の支払いなしでウイスキーを製造できるという特権的な税制優遇措置を政府から与えられた。

なぜフィーブス家がそんな優遇の対象になったのだろうか。そこには王権と議会の政治力をめぐる英国史ならではの事情がからんでいる。当時の当時のダンカン・フォーブスは、王権に対抗する議会の権力維持に協力する有力者だった。その見返りとして、議会側がフォーブス家に与えた特権的措置こそがウイスキー製造の許可だったといういきさつである。

議会に優遇されたダンカン・フォーブスは、すぐさま特権をフル活用することにした。そうやってつくられたウイスキーが「フェリントッシュ」である。その品質は高く、しかも税制で優遇されているから手頃な価格に抑えられる。有利な条件も後押しして、ブランドの評判と売上は瞬く間に成長した。

こうしてフェリントッシュの人気は爆発し、ハイランド地方はブラックアイル半島におけるウイスキーの代名詞となった。だが1703年になると、当初からの特権に制限がかけられるようになる。酒税免除は、フェリントッシュの領地内で栽培された穀物のみを使用して製造されたウイスキーに限られるという条件が課せられたのだ。しかしこの規則は、実際のところほとんど無視されていたという。
 

戦乱を経て突然の終焉

 
ダンカン・フォーブスの息子であるジョン・フォーブスとダンカン・フォーブスは、父親に倣って議会への政治的支援を続けていた。折しもスチュワート王朝を支持するジャコバイト勢力が、既存のプロテスタント王たちを倒してローマンカトリックの王権を復権させようとしていた時期である。そのような政治的混乱のなかでも、フォーブス家は一貫して英国政府を支持する立場だった。

このジャコバイト蜂起は、1746年にインヴァネスとネアーンの間にあるカロデンの地で終局を迎える。これは英国本土で戦われた最後の武力衝突として語り継がれ、アメリカの作家ダイアナ・ガバルドンによる小説『アウトランダー』シリーズや、その小説を原作としたテレビシリーズによって新しい世代にも広く知られるようになっている。

この地でウイスキー製造を復興すれば、背景にあるさまざまな歴史にもスポットライトが当たることになる。ハイランドの歴史は、スコッチウイスキーの歴史と不可分だ。

戦乱を乗り越え、フォーブス家の領地ではウイスキーの生産量も増加していた。やがて1760年代に入ると、さらに3つの蒸溜所が領地内に建設されてメインの蒸溜所でも設備が増強される。原料となる穀物は、近隣の土地だけでなくスコットランド全土の農場からも供給され続けた。

高まるウイスキーの需要に対応するため、1782年にはロンドンにもフェリントッシュの貯蔵庫が建設された。その生産量は1784年にピークを迎え、スコットランド全体の生産量の36%を占めるまでに至った。

だがここへ来て、創業時からフォーブス家に与えられていた特権的な税制優遇に疑問が呈される。ローランド地方の蒸溜所や地元のライバルは、長年にわたって不公平を我慢していた。激しい抗議を受け入れる形で、政府はフェリントッシュが享受していた特権を取り上げることにした。この影響は予想外に早く、1784年に蒸溜所の稼働が止まる。栄華を誇ったフェリントッシュは、あっけなく姿を消したのである。

フェリントッシュの廃業は、ウイスキーを愛する人々に大きな失望を巻き起こした。スコットランドの国民的詩人であるロバート・バーンズは、蒸溜所閉鎖の翌年に書いた詩「スコッチ・ドリンク」で嘆き悲しんでいる。

「フェリントッシュよ。なんと悲しい損失だろう。海岸から海岸まで、スコットランド全土が嘆いている」

他の多くの文学者たちも、フェリントッシュへの思いを書き遺している。英国の作家サミュエル・ジョンソンの伝記作家として有名なジェームズ・ボズウェルは、その悪名高い伝記文学『サミュエル・ジョンソン伝』でフェリントッシュの素晴らしさに言及していた。

また『ウェイヴァリー』や『アイヴァンホー』などのロマン派歴史小説で知られるウォルター・スコットは、知人に宛てた手紙の中で「うちには美味しくていきのいいハイランド産のフェリントッシュがたっぷりある」と自慢している。

スコッチ最大のブランドだったフェリントッシュは、歴史の1ページに名を残した。そして時代の変遷とともに、忘れられていったのである。
(つづく)