樽出しのタイミングが重要視される熟成工程だが、スピリッツの樽入れにも複雑な科学がある。樽入れ時のアルコール度数で、ウイスキーの風味は大きく変わるからだ。

文:イアン・ウィズニウスキ

 

モルトウイスキーをテイスティングするとき、まず押さえておくべき基本的なポイントが2つある。ひとつはボトリング時のアルコール度数で、もうひとつは熟成に使用した樽の影響だ。この2つの要素は、全体のフレーバーの構成に影響を与えて、飲む人が感知するウイスキーの特性を決める。

だがこの前段階にあたる樽入れのタイミングで、ウイスキーのフレーバーにはもうひとつの分かれ道がある。それがニューメイクスピリッツを樽入れする時のアルコール度数だ。

スコッチウイスキー業界で、樽入れ時の標準的なアルコール度数は63.5%となっている。これは業界内のメーカー間でニューメイクスピリッツを売買したりするとき、同一条件(熟成年数や量)を担保するための基準だ。同じアルコール度数のスピリッツが樽に入っていれば、樽単位での取引も何かとスムーズになる。

スコットランドのウイスキーメーカーにとって、他の蒸溜所と樽単位で原酒を交換するのは伝統的な必然でもあった。これはもちろんブレンディングの際に、できるだけ幅広いフレーバーやスピリッツのスタイルを確保したいからである。

現在はブレンデッドウイスキーをつくる大資本のディアジオやペルノ・リカールが、傘下にたくさんの蒸溜所を抱えて幅広いスピリッツを確保できている。そのためアルコール度数を他の蒸溜所にあわせる必要性は、以前よりも少なくなってきたともいえるだろう。それでも蒸溜所間の取引は依然として続けられており、業界標準の樽入れ度数は今でも意識されている。

 

蒸溜所ごとに異なる樽入れ時の度数


 

ポットスチルで蒸溜されたニューメイクスピリッツは、ひとまずスピリッツレシーバーに収められる。この時点でのアルコール度数は「レシーバーストレングス」と呼ばれ、アルコール度数は約70%程度であることが多い。そのため、樽入れ時の度数まで下げるために水が加えられる。この作業は蒸溜所によってさまざまなルールがあり、アプローチもまちまちだ。

たとえばグレンフィディック、バルヴェニー、キニンヴィの各蒸溜所では、度数71%のニューメイクスピリッツを2種類の樽入れ度数に分ける作業がある。ひとつは63.5%で、もうひとつは68.5%だ。この理由について、ウィリアム・グラント&サンズのマスターブレンダーを務めるブライアン・キンズマンが説明している。

「この2種類の樽入れ度数は、私たちが伝統的に採用しているものです。記録を見てもずっとこの度数だし、伝統を変えるのはとても勇気が要るでしょうね。この2種類の度数で樽入れされた原酒は、あらゆる商品に使用されています。たとえば定番のグレンフィディック12年にも、両方の度数で樽入れされた原酒が併用されていますよ」

グレンアラヒーのマスターディスティラー、ビリー・ウォーカーによると、グレンアラヒーのチームは、使用する樽の種類や目標の熟成年数によって、4種類の樽入れ度数を使い分けているのだという。その内訳は、63.5%、65%、67%、69.3%だ。

さらにいえば、加水しないレシーバーストレングスで樽入れするという方法もある。このアプローチはグレーンウイスキーとモルトウイスキーの両方で採用されているが、ブルックラディもそんな蒸溜所のひとつだ。操業を再開した2001年以来、ブルックラディでは一貫してレシーバーストレングスの69%で樽詰めしている。

ウイスキーメーカーが、樽入れ時の度数を決める際に、判断の基準とする要件がいくつかある。まず大事なのは、実利に根ざした考え方だ。樽入れ時の度数が高いほど、出来上がりの原酒量は少なくて済む。つまり使用する樽の数を節約できて、貯蔵庫のスペースも圧迫しないのだ。そのため樽入れ時の度数を上げるほど、蒸溜所の生産コスト削減もつながるといえる。

逆に樽入れ時の度数を下げるということは、それだけ液体の量が増えるということでもある。樽の本数も貯蔵庫のスペースも余分に必要になるため、生産コストもかさむことになる。樽入れ時の度数を下げるために大量の水を加えることについても、「水を熟成してどうするんだ」と考えるウイスキー関係者がいるのも事実だ。

だがこの一部で常識的と思われる考え方も、熟成の科学を踏まえた現実的な視点を無視している。これまでの研究によると、樽材から望ましいフレーバーを引き出すためには、アルコールだけ投入するよりも水を加えたほうが効率的であると証明されている。

そして樽入れ時の度数と熟成スピードには、直接的な関係がある。熟成度の指標を記録していくと、最初の10年の熟成には一定の法則が見られる。しかしウイスキーづくりにはありがちなことだが、すべてのメカニズムが明らかになっているわけではない。議論の余地はまだ残されている。