Lost Distilleries―アイラ島
アイラ島の蒸溜所のチャートを作成する
Report:ガヴィン・D・スミス
スコットランドのウイスキー「エリア」の中で、アイラ島は疑いの余地もなく、ビクトリア朝以来一貫して変わらない。1880年代の中頃、アルフレッド・バーナードがヘブリディーズ諸島を訪れた時には、9つの蒸溜所が操業していたが、現在よりひとつ少ないだけだ。
だが、この「ウイスキーアイランド」がスコッチウイスキー業界を襲った予測のつかない経済の変化から免れたとみなすのは間違いだろう。
バーナードの来訪以来、ふたつの主要な蒸溜所、すなわちポートエレンとロッホインダールが失われた。一方で、新しくキルホーマン蒸溜所が操業を始めた。
ポートエレンは、事実上改築が行われていた1930年から1960年代の半ばまで休業していたものの、1825年から1983年まで操業していた。
ロッホインダール蒸溜所は、1829年ロッホインダールの海岸に面したポートシャーロット村で創業。当初ポートシャーロット蒸溜所の名で操業しており、バーナードが来訪した1880年代の中頃には年間12万8千ガロンのウイスキーを製造していた。一方、当時ラガヴーリンで7万5千ガロン、アードベッグでは25万ガロンを生産していた。
ロッホインダールのオーナーJ.F.シェリフ社は1920年、ベンモア・ディスティラリーズ社に買収され、9年後、経済不況の苦しい時代に奮闘する多くの蒸溜所ベンチャーと同様の運命に追い込まれた。ディスティラーズ・カンパニー社(DCL)が買収し、そしてロッホインダールを閉鎖したのだ。
機械や設備は取り除かれたが、建物のうちいくつかの棟は1990年代まで、現在は閉鎖されてしまっているアイラ島バター製造所として引き続き利用された。一方で、他の建物は撤去され、駐車場ビジネスやアイラ島のユースホステルに利用された。しかし、2棟の堅固な石造りの倉庫は、ウイスキーの成熟に利用するために残され、そのうちの1棟は、ポートシャーロットの旗の下、ブルイックラディが新しい蒸溜所の本拠地として展開する予定だ。
しかしながら、ポートエレンとロッホインダールというふたつの大規模かつ注目を集めた蒸溜所を失った以外にも、幾年にもわたって、小規模で世に知られていない多くのアイラ島の蒸溜所が消えていった。
“モルトミル”はウイスキー業界の流れの一環として創立されたというより、むしろひとりの男の個人的な憤りの産物であった。1900年の初頭、際立って世間の注目を浴びていた蒸溜所、ラガヴーリンは、マッキー社が所有していた。その会社が製造する有名なホワイトホースはスコッチウイスキーをブレンドし、その一方で、ホワイトホースのピーター・マッキーは、隣接するラフロイグの販売代理店としての役割も務めていた。水の使用権に関するいざこざにより販売代理店の役割を失った際に、その報復として、マッキーは自分独自のバージョンのラフロイグをつくろうと決心した。そのため1908年に、ラガヴーリン蒸溜所の敷地内にモルトミルという名の小規模な蒸溜所を建設した。
マッキーの尽力にもかかわらず、モルトミルは、品質の点でも、個性の点でも、ラフロイグに決して匹敵するものではなかった。おそらく異なる水源を使用したことが、少なからず影響していたのだろう。それにも関わらず、製造中止した1960年まで蒸溜所は生きながらえた。2年後、工場設備は取り除かれ、洋ナシ型の一対の蒸溜器はラガヴーリンの蒸溜室に移動され、さらにそこで7年間稼動した。モルトミルの建物は、現在ラガヴーリンのビジターセンターとなっている。
アイラ島は、1816年の小規模スティルに関する条例の結果として、創業・合法化された小規模蒸溜所が数多くあることで注目されている。
アードモア(のちにラガヴーリンに吸収)、バリーグラント、ブリッジエンド、オクトブーリン、オクトモア、ニュートン、スカラバス、そしてタラント、現在失われた蒸溜所のすべてが、この条例の制定後数年の間に創設された。1823年の規正緩和によって再度、アイラ島に数多くの新しい蒸溜所が生まれた。この時に誕生した蒸溜所には、グレナヴーレン、ロシット、マリンドリーや、規模の大きいものではポートエレンやロッホインダール、そして最終的にはラフロイグの敷地に吸収されたアーデニスティールも含まれている。
バリーグラントの近くのロシットは、中規模サイズの農場内蒸溜所で、1826年から27年にかけて、1万2千ガロン以上を製造していた。1862年まで操業し、アイラ島においてここ最近最後に閉鎖された蒸溜所だった。現在アイラで一番新しい蒸溜所、キルホーマンは、使用するモルトを自社の畑で栽培してフロアモルティングを行うなど、伝統的なウイスキーづくりを行っている。